kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

朝日も毎日も「有識者会議」や「敵基地攻撃能力の保有」方針に何の民主的正統性もないことは完全にスルーして、争点は財源だけってことにしちゃうんだね。まさに統治機構の一部としか言いようがない。(by 中野晃一氏)

 東京都某区の共産党区議がサッカーW杯について何やらツイートした件については、そんなことよりも自党内のパワハラや党の愛知県連が愛知県知事選で緑の党新選組系の右翼候補に相乗りしようとしている醜態について何か言えよとしか思わない。

 しかしそんな共産党も軍事費増額(倍増)には反対だろう。

 軍事費の件については立民が反対を打ち出せずにいる。また新選組も少なくとも半年前の山本太郎の初動には問題があった。弊ブログでこの件を最初に取り上げたのは5月末だった。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 上記リンクの記事の冒頭に、「岸田政権が防衛費大幅増額を公言し、それに立民の泉健太や×××新選組山本太郎らが同調する発言をしている」と書いた。現在の山本のスタンスは知らないが、少なくとも初動では地金を出していた。

 「立民の泉健太」は論外だが、その立民への影響力が強いと思われる朝日新聞もひどいようだ。

 

 中野晃一氏のツイートより。

 

 

 朝日がそんなざまなら、ただでさえ右寄りの泉健太が軍事費大幅増に反対を打ち出せないのも道理だ。

 

 ツイートからリンクされた東京新聞の記事は下記。

 

www.tokyo-np.co.jp

 

 記事の前半を以下に引用する。

 

敵基地攻撃能力「ありき」なのか…政府有識者会議が開催4回で首相に報告書 財源確保で増税求める

2022年11月22日 21時26分

 

 防衛力強化を検討する政府の有識者会議(座長・佐々江賢一郎元駐米大使)は22日、敵基地攻撃能力(反撃能力)の保有や安定財源確保のための増税などを求める報告書を岸田文雄首相に提出した。会合は9月30日に初めて開いて以降、わずか4回だけ。議事要旨が公表された3回目までで「反撃能力」が言及されたのは5回にとどまり、反対意見も出ないなど、保有したい政府の意向を踏まえて議論が進んだことをうかがわせた。

 

 報告書では、「周辺国が核ミサイル能力を急速に増強し、特に変則軌道や極超音速のミサイルを配備している」と指摘。その上で、日本の抑止力を維持、向上させるには「反撃能力の保有と増強が不可欠だ」と明記した。敵の射程圏外から攻撃できる国産のスタンド・オフ・ミサイル改良などによって「今後5年を念頭にできる限り早期に十分な数のミサイルを装備すべきだ」とも盛り込んだ。

 

 増額が見込まれる防衛費の捻出に関しては「国債発行が前提となることがあってはならない」と強調し、増税の必要性に言及。国を守るのは国民全体の課題だとして「幅広い税目による負担が必要だと明確にし、(国民に)理解を得る努力を行うべきだ」を訴えた。

 

 首相は佐々江氏から報告書を受け取った後、「重要なアドバイスだ。与党と調整しながら検討を進める」と述べ、政府が年末の改定を予定する国家安全保障戦略などに反映させる考えを示した。(川田篤志

(後略)

 

東京新聞より)

 

出典:https://www.tokyo-np.co.jp/article/215524

 

 このくらいの記事はかつての朝日なら普通に書いていたはずだと思うが、現在では

朝日も毎日も「有識者会議」や「敵基地攻撃能力の保有」方針に何の民主的正統性もないことは完全にスルーして、争点は財源だけってことにしちゃう

のだそうだ。どうしようもない。

 

 ところで「有識者会議」のメンバーの名前が下記ツイートに書かれている。

 

 

 船橋洋一の名前がある。2007〜10年に朝日新聞主筆を務めていた。その後2011〜13年に若宮啓文(2016年死去)が主筆になり、船橋時代の右傾路線はやや修正されたが、この若宮も私は基本的には買っていなかった*1。父親の若宮小太郎が同じ朝日の記者でのち鳩山一郎の秘書になった。2012年にプーチンから「引き分け」発言を引き出したのは若宮だったが、あの「引き分け」発言をもてはやした一部のメディア(朝日系の「報道ステーション」などがそうだった)も苦々しく思っていた。そのプーチンは現在本性をあらわにしている。若宮啓文鳩山由紀夫的ともいうべき胡散臭さを感じたのは、父親の経歴を知っていたところからくる偏見だったかもしれないが。

 若宮が2013年1月に主筆を退任して以来、朝日は再び主筆を置かなくなった。再び、というのは2007年に船橋主筆に就任したのは、実に30年ぶりの主筆復活だったからだ。その前の主筆は広岡知男(1971〜77年)だったが、過度の親中派でこれまた歴史の審判に耐えられる人ではなかった。なぜなら広岡の主筆時代は中国の文化大革命時代と重なるからね。広岡はその時代の「親中派」だった。

 1970年代に左に振れ、2000年代以降には右に振れた結果、現在の朝日新聞があるようだ。

*1:だいぶ若宮が若年層向けに書いた書いたちくまプリマー新書を読んだところ、まともなことも書かれてはいたので若宮を全否定はしないが。