kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「持続可能型モデル」とは、市民と野党共闘のなかで掲げた政策の愚直な実行を通して政治改革を持続的に追求すること(『広原盛明のつれづれ日記』)

 弊ブログは、最近では主に立民の「右派」(その親玉が泉健太であることはいうまでもない)を叩く記事がももっとも多いと思うが、本来共産シンパ系であったはずの老リベラリストたちの議論の様子が広原盛明氏のブログに掲載されていて、それがなかなか興味深かったので紹介することにした。

 

hiroharablog.hatenablog.com

 

(前略)随分前置きが長くなってしまったが、本論に入りたい。さすがの赤旗も「𠮟咤激励」ばかりでは効果が出ないとでも考えたのか、「緊急の訴え」から2日後の赤旗(10月23日)には、「食べて歌って語ったJCBサポーターまつり」の特大記事が掲載された。1面トップの見出しは〝楽しく政治を変えたい〟というもの。紙面の随所に「対話」「問いかけ」「トーク」「若者を引き付ける発信」など見出しが溢れ、小池書記局長や田村副委員長がハッピを着て盆踊りの輪に加わる姿や、志位委員長が蝶ネクタイのバーテンダー姿でカクテルをつくる写真なども大きく出ている。この間、党勢拡大大運動を推進するには「鬼気迫る提起」や「革命政党の気概」が必要だとして、赤旗はまるで戦時体制下を思わせるような檄文で紙面を埋め尽くされていた。ところがこの日は紙面がガラリと変わり、「食べて歌って楽しく政治を語る」場となったのである。連日の党勢拡大運動に追われてきた赤旗読者は、いったいどのような気持ちでこの特大記事を受け止めたのだろうか。

 

 先日、久しぶりに集まった関西の口喧しいオールドリベラリストたちの間でも、蝶ネクタイ姿の志位委員長の姿をどう見るかで議論が大いに盛り上がった。「志位嫌い」を自認する某は、「あれは単なる人気取りのパフォーマンスだ。見苦しいと思わないか!」と一言の下に切って捨てたが、別の1人は「それでも彼は苦労している。そうでもしないと人が集らないからだよ」と案外同情的だった。議論はこの2人の間でとめどもなく行き来したが、ふだん見慣れない雰囲気がわれわれ(シニア世代)に複雑な気持ちを抱かせたことは間違いない。「なんだかすっきりしない」「こんなことをこれからもやるんだろうか」などなど、帰り際に図らずも交わした言葉がいみじくもそのことを物語っていた。

 

 「衣の下の鎧(よろい)」という言葉がある。戦いを前にすでに鎧で身を固めながら、その上に衣をまとって普段と変わらない平静さを装うという「演出=パフォーマンス」を意味する言葉だ。私はその場では口に出さなかったが、彼らの議論を聞きながらあれこれとこの言葉の意味を考えていた。なぜなら、志位委員長らが党内では「鎧姿」の党勢拡大一本やりの厳しい姿勢で臨みながら、党外のサポーターの前では蝶ネクタイのバーテンダーというソフトな「衣姿」で登場しなければならない状況に、いまの共産党が直面している深刻な矛盾(裏と表を使い分けなければならない党内と党外のズレ)があらわれていると感じていたからである。

 

 もう少し詳しく説明しよう。志位委員長を取り巻く目下の厳しい状況は、党勢拡大を基調とする「成長型モデル」がもうとっくの昔に破綻しているというのに、その現実を直視すれば政治方針上の誤りを認めることになり、自分への責任追及はもとより延いては「民主集中制」に基づく党体制の瓦解へ波及する恐れがあるため、党内ではハードな「鎧姿」でいつも通りの方針を繰り返さざるを得ない――というものである。といって、「鎧姿」では党外のサポーターにアピールするはずもないので、蝶ネクタイのバーテンダーという「衣姿」を装って変身し、「対話」や「問いかけ」をするというソフトな演出をすることになったのだろう。つまり、現在の世の中の流れに合わせようとすれば、対話や問いかけを通して市民に働きかけるほかなく、赤旗で連日強調しているような「鬼気迫る提起」や「革命政党の気概」はもはや通用しなくなっていることが明らかなのである。

 

 こんな党内と党外の「ズレ」を放置したままでは、それが「大きな壁」となり「高いハードル」となって党勢拡大運動が難渋することは目に見えている。その所為か、最近では2カ月後の次期党大会を目前にして、これまで掲げてきた「(前大会比)130%の党づくり」の目標がいつの間にか「130%の党への第一ハードル=党大会現勢への回復・突破」に切り下げられ、新たな大号令が発せられるようになった。しかし、それとても容易でなくなってきている現状の下では、「3割増の党勢拡大」の目標が「1割減の党勢後退」の実績に終わる可能性が極めて大きい。これを次期党大会でどう総括するかは目下のところ不明だが、もしもいつもの調子で「政治方針は正しかったが、党内のやる気が足りなかった」との説明で切り抜けるようなことがあれば、党内は乗り切れても党外からは「もう終わり」と切り捨てられることが確実だろう。

 

これは「イフ?」の話であるが、党内外を通して「志位体制支持率」の世論調査が行われれば、おそらくその支持率は岸田内閣の支持率と同じく(地を這うような)史上最低の水準にあることが判明するに違いない。この意味で〝党首公選制〟は政党党首の適格性を判断するための不可欠のシステムであり、これなくしては独裁体制の恒常化を防ぐことができない。また、党首公選制を実現するには「民主集中制」を組織原則とする党規約の刷新(廃棄)が前提となる。戦時共産主義体制下の軍事命令を根源とする「民主集中制」が(文面を少し変えただけで)いまなお共産党の組織原則・行動原理として機能していることには驚くほかないが、それをあれこれの理由を挙げて維持しようとする権威主義的体質にはさらにのけぞるというものだ。窺った見方をすれば、志位委員長が党首公選制を(あくまでも)忌避するのは、それが自らの(低)評価につながり、退陣に結びつくことを恐れているからではないか――とも言える。

 

「持続可能型モデル」とはどんなものか。一口で言えば、赤旗JCBサポーターまつりで掲げた〝楽しく政治を変えたい〟ということを本気で目指す政党づくりのことだと考えてよい。言い換えれば、「成長型モデル=党勢拡大一本やり」という鎧を脱ぎ捨てて平服に「衣替え」することであり、党内外のズレをなくすことである。広範な国民が自公政権(岸田内閣)に心底愛想を尽かしている現在、また「自民崩れ」の民主党政権への一時的な宿替えが幻想に終わったことを国民が実感している現在、市民と野党共闘のなかで掲げた政策の愚直な実行を通して政治改革を持続的に追求することであり、市民と野党共闘が将来の〝変革〟につながることを確信し、ブレずに改革姿勢を貫くことである。

 

そのためには、何よりも共産党が国民の信頼に足る「言行一致」の政党であることを示すことが求められる。共産党への批判を「反共攻撃」とみなし、「党勢拡大こそ反共攻撃に対する最大の回答」などと党員や支持者を駆り立てることは、結果として党員や支持者の「視野狭窄」の弊害を招き、共産党の閉鎖的で偏狭的なイメージを一層拡大することになり、「赤く小さく固まる」孤立主義に陥ることにしかならない。そのためにも、党の権威主義的体質を抜本的に刷新し、党規約を改正して「民主集中制」を廃棄し、党首公選制を実施して、党内外のズレをなくさなければならないだろう。

 

(『広原盛明のつれづれ日記』2023年11月4日)

 

URL: https://hiroharablog.hatenablog.com/entry/20231104/1699044903

 

 引用文中、最後の2つの段落が特に印象に残る。ことに私がおおっ、と思ったのは「市民と野党共闘のなかで掲げた政策の愚直な実行を通して政治改革を持続的に追求することであり」という一節だ。なぜなら弊ブログで直前に公開した記事の結びに、他ブログの記事を引用しながら「(該ブログが書いたような)そういう愚直さが立民や他の野党に求められると私も思う」と書いたばかりだからだ。

 最後の段落にある「党の権威主義的体質を抜本的に刷新し」とか「党規約を改正して『民主集中制』を廃棄し」などは、そういう提言が共産党に本来近かった人々(ことにブログ主の広原氏は2004年の京都市長選で共産党の推薦を受けた候補者だった)から出てきていることはまことに心強い。

 思えば現在の共産党は「分派狩り」、立民については、弊ブログ以外のブログやSNS等はほとんど指摘しないけれども泉健太とその一派による巧妙なかつ持続的な党内権力工作、そして政権政党自民党も今回の萩生田光一柿沢未途との確執に典型的に表れている清和会対宏池会、あるいは世襲貴族を中心とした生え抜き対柿沢や細野豪志に代表される外様との権力抗争などにみられる通り、あまりにも内向きな権力抗争に明け暮れていて、支持者や国民に対して全然目が向いていないように思われる。もちろん元号新選組でも「ローテーション制」の一件に見られるような「純化」に向けての権力抗争があるし、権威主義的体質の酷さという観点からみても最悪なのは文句なくこの新選組だろう。

 上記の共産や立民や自民や新選組、そしてもちろん維新や参政党その他には「愚直さ」が全く欠けているのだ。

 悪しき同調圧力を一切排して「愚直に」前進することは困難極まりないとは思うが、それをやらない限りこの国の再生の可能性はない。