kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

共産党の民主集中制に関する醍醐聰氏のX「党員が党の決定に反する意見を(党外で)発表することを禁じるのは、党外から寄せられた党の方針に対する疑問について党員が自分の真意を語ることを禁じるに等しい。これも党員の思想表明の自由を侵害し、思想の交流を抑圧する前近代的掟である。」(2024/2/28)

 今日は共産党の話を少しする。

 まず、少し前にいただいたコメントを紹介する。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 774

人は誰しも経験に引き摺られるものです。特にそれが自らの尊厳を損なうような苛烈な経験であればあるほど…。私は管理人様のいう「パワハラに遭ったことのない幸せな人生を送ってきた人」であるせいか、田村委員長の例の結語を読んでも「共産党は相変わらずだな。でも100年も続いてる政党なんだからそう簡単に変わるわけないか」と感じただけですが(もちろん共産党には本当の意味で民主的で風通しの良い政党に生まれ変わってほしいとずーっと願っています)、紙屋氏の「スターリナ…」にはここまで言われなきゃいけないのか、小池晃氏が公衆の面前で田村氏を叱責した時(パワハラの典型的状況)、誰が彼を「スターリン」と呼んだだろうか?と思いました。それはとどのつまり、私が田村委員長と同年代の同性であるためでしょう。私には彼女が日本共産党という、戦前から建前は女性同権を唱えながら実態は女性党員をハウスキーパーとして利用してきた政党の中で、どれだけの苦労や理不尽な思いをしてきたか、容易に想像できるからです。日本共産党は結党から100年も経って、やっと初めて女性が党首になったような政党なのです。今は不十分であろうとも、これは変化への第一歩だと「今は」前向きにとらえています。そして田村委員長に一歩でも二歩でも共産党を前に進めてもらいたい、そう思って見守ろうと思っています。

 

 2022年末に小池晃氏が田村智子氏に対して行ったパワハラ(これがパワハラであったことは共産党自身が認め、小池氏に対する処分も行われた)には古くからの「男尊女卑」の差別構造の要因があったことは明らかです。しかしその時の小池氏のパワハラに対して「スターリン」との呼び方がなされなかったことは、単にスターリンの粛清に性差による差別構造が関連する事例を誰も思い出さなかったからに過ぎないのではないでしょうか。あの件はパワハラとは言っても上位の職位にいる男性が下位の職位の女性に対して行った「個対個」のものであって、田村氏の地位が脅かされる等の事態はありませんでしたし。

 それに対して、田村氏による大山奈々子氏に対する「パワハラ」(共産党自身がパワハラを認めているわけではないんで括弧付きとしました)には「組織対個」の構図があり、特に昨年末に党内の福岡県の組織で「組織対個」の吊し上げを受けた紙屋高雪氏が、自らの経験をまざまざと思い出してXに「スターリナ」とポストしたのは、ごく自然な感情の発露だったに違いないと思います。

 今「感情の発露」と書きましたが、ここに至るまでの紙屋(神谷)氏の自らを律するあり方は、生易しく「感情の発露」をすることとはまさに対極にある、極端にストイックなものでした。時折氏のブログ記事を読んでいた私は、「うひゃあ、すごいなあ。俺にはとても真似できないよ」と感嘆したものです。

 では、神谷氏が実践した党の規則とはいかなるものだったか。最近、それを批判した醍醐聰氏のXが発信されました。以下にリンクします。

 

 

 

 ポストが2つに分かれていて見づらいので、以下に醍醐氏の民主集中制批判を抜き書きします。

 

  1. 自分の意見が党の決定と異なる場合、意見は保留できるが、党の決定を実行するよう求める*1のは、個人の思想と行為を引き裂く結社の越権的統制であり、内心の自由を無化し、思想表明の自由を侵害するものである。
  2. 党の信用を失墜させる言動は別として、党員が党の決定に反する意見を(党外で)発表することを禁じる*2のは、党外から寄せられた党の方針に対する疑問について党員が自分の真意を語ることを禁じるに等しい。これも党員の思想表明の自由を侵害し、思想の交流を抑圧する前近代的掟である。

https://twitter.com/shichoshacommu2/status/1762827420128944619

https://twitter.com/shichoshacommu2/status/1762833251234877918

 

 上記は間然するところがない(非の打ちどころがない)批判だと私は思います。

 神谷氏は、このような厳しい規則を守って自らを律し、「意見を保留する権利」を行使した上で「党の決定を実行した」のでした。つまり規約第5条(五)の前段は完全に守った。しかしその経緯をブログに発表したために、後段に違反していると党に認定されたものと推測されます。

 私は氏のブログ記事を読んだ時、意見を「保留する権利」が認められるだけなのか、自分だったらこういう政党ではやっていけないだろうなと思って氏の精神力に感嘆したのですが、「意見を保留するだけにとどめる」態度を維持するための精神的エネルギーは大変なものだったに違いないと思います。

 一方、当規約を盾にとって処分する側にはさほどの精神的エネルギーを必要としないように見えます。私は必要な精神的エネルギーの大小関係がこの逆でなければまともな組織とはいえないと思います。権力者には配下の人々の人生を大きく左右する力がありますから、権力を行使するか否かを多大な精神的エネルギーを用いて熟慮するのが本来のあり方なのではないでしょうか。

 なお、神谷氏や松竹氏を「反党裏切り分子」、党外からの党批判者を「反共分子」と罵倒するだけの意見を垂れ流す一部の人間の行為に至っては、ただ単に惰性でやっているだけですから必要とする精神的エネルギーはほぼゼロです。文章を書いて発信する時間を消費するだけでしかありません。従って私はそのような人間を誰よりも深く軽蔑します。まさに人間のクズ。あらゆる人間の中でももっとも劣悪な人たちだと思います。

 また、いうまでもありませんが、大山奈々子氏の件に関しては性差による差別構造もなく、ただ単に強烈な「組織対個」のパワハラの構図が認められるだけです。

 この件で感じるのは、おそらく大山氏の方が田村氏より精神的に優位に立っているんだろうなということです。数年前までの田村氏の意見発信とそれが撤回された経緯を思い起こすと、田村氏がどのような心理であのような結語を発したかは容易に推測可能だからです。

 

 他の方から弊ブログにいただいたコメントを以下に紹介する。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 こっこ

本ブログで政党の権力抑止構造の話題になるたびに常々思うことですが、他ならぬ自民党の派閥こそはその執行部の権力抑止構造そのものでした。二大政党制=派閥構造の外部化を図った小沢一郎の手によって選挙制度が変えられ権力の源泉を失ってから数十年、小泉純一郎による「破壊」を経ても、不完全な形であれ今の今まで生き残ってきた派閥がとうとう真の意味で解体するのかどうかまだ分かりませんが、その有り様が示すのは、権力抑止構造とは権力の分割であり、新たな権威の創造に過ぎないということ、そして、権力は必ず腐敗する、ということです。民主集中制によって権力を中央に萃めている日共が「分派行動の禁止」を掲げて、それによる権力の行使が批判されているのは象徴的です。我々は今、集中的権威と分割的権威の二つの権力のあり方のそれぞれの極北を目の当たりにしていると言えます。

問題は制度ではないのだろうと僕は思います。立憲主義とか権力抑止構造とか、あくまで手続き的な、テクニカルなレベルの話であり、そこから入ると本質をとらまえた議論にならないのではないでしょうか。例えば派閥を党の綱領に書き込んで制度化したり、外部有識者による第三者監査委員会を常設したり、それによってガバナンスや透明性は一時的に改善するでしょうが、結局は権力の移し替えに過ぎず、プレイヤーが変わらなければ、いずれ同じことが繰り返されるだけでしょう。

 

 コメントの前段はともかく、後段がよく理解できませんでした。

 「問題は制度ではないだろう」から始まって「プレイヤーが変わらなければ、いずれ同じことが繰り返されるだけ」で終わるので、単純に考えれば「制度ではなく人の問題だ」、つまり旧ソ連であればスターリン個人、日本共産党であれば志位和夫個人、自民党であれば少し前までなら安倍晋三個人、現在では「安倍派5人衆」や、忘れてはいけない岸田文雄などの個人の責に帰(き)する問題というように読めるのですが、そうだとしたら同意できません。

 私はやはりこれは権力の構造の問題であって、制度を変えるしか解決法はないと思います。昨日、18世紀後半から19世紀前半にかけての権力と人間に関することに思いをめぐらせながら「権力悪」という言葉をブログ記事に書きましたが、その過程でかけたネット検索でみつけた、下記バートランド・ラッセルの「権力悪」の説明に感心した次第です。

 

バートランド・ラッセル「権力悪」

 

* 出典:牧野力(編)『ラッセル思想辞典
* Source: What is democracy? 1953.)

 

 権力者は、古今東西、恐怖心さえ抱かなければ、権力を持たない人間の幸不幸には無頓着である。上流階級の人々は、自分達が幸せに暮すためにどんな苦痛を他人に与えているかを生涯知らずに暮したり、知っても知らないふりをする。

 

 メルバーン卿はヴィクトリア女王(時代)の最初の首相で、私生活では、魅力的で、教養が豊かで、博識で、人情深く、気前よく、金持だった。だが、彼があのように優雅に暮せたのは、少年達がハシタ金のために暗闇の炭坑内で長時間働いたお陰だった。似た話はざらにある。プラトンの『対話篇』に出てくる洗練されたギリシアの若者たちを、英国の古典学者達は英国上流階級の青年の模範例にするが、若者らは短命なギリシア帝国を搾取して暮していた。また、十八世紀終りから十九世紀初めにかけて、英国の上下両院は地主貴族の代議士の集りで、貧農達が共同地で享受してきた権利を取り上げる囲地条令(囲い込み条例)を通過させた。これで農村の過疎化が起り、貧農は都会に流出して、長時間労働と低賃金の犠牲の下で産業発展にひと役買った。成人だけではなく、児童らも一日十二時間以上工場で働き、作業中眠り、機械に巻き込まれ、体を寸断された。

 

 右の例は、個人が悪いと言うよりも、権力悪のある社会の仕組みの結果というべきで、これを防止するには、政治的、経済的に権力を全市民に配分する民主主義しかない。

 

URL: https://russell-j.com/beginner/POWER-EV.HTM

 

 やはり個人ではなく制度の問題なのではないでしょうか。

*1:日本共産党規約第5条(五)前段=引用者註

*2:規約前条五後段=引用者