kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

中村とうようとキャンディーズと吉田秀和と

 中村とうようについてはあまりよく知らないので、下手に訃報の記事も書けないなと思っていたのだが、実は1か月ほど前、久しぶりに中村とうようが昔書いた文章を目にしたばかりだった。


中村とうようが死亡!「さよならキャンディーズ」が・・・? | ニュースといえば風の便り!芸能人のおしゃれグッズにドキュン!!


 そう、上記記事の筆者と同様、私も下記の雑誌を本屋で目にして、ぱらぱらページをめくっていたのだった。

レコード・コレクターズ2011年7月号:株式会社ミュージック・マガジン


 中村とうようの本名が「中村東洋」だとは訃報に接して初めて知った。なんとなく、高知県の人のような名前だが*1、京都の人だったらしい。


 私が中村とうようについて持っていたイメージは、「左翼の人」ということだが、具体的に氏がどのような思想を持っていたかは知らない。ただ、氏の文章をちょっと読んで、こりゃ紋切り型の左翼だな、ちょっとついていけないなという印象を持った記憶はある。それは、

(現代音楽を含む)クラシック的なものには敵意に近いものが感じられ、そのとばっちりを受けたのがプログレッシヴ・ロックというジャンルだったわけだ。

という件*2と関係しているが、確かに氏はクラシック及びその流れを汲む「現代音楽」を敵視していた。十年以上前だったと思うが、中村とうようが97歳で今も健在の吉田秀和を激しく批判した文章を読んだのだが、60年代には吉田秀和は現代音楽祭を主催するなど、「現代音楽」の旗振り役を務めていた。吉田秀和は政治的発言はほとんどしないが*3、故加藤周一の盟友で、大江健三郎とのつきあいもある。中村とうよう吉田秀和を批判したのは、浅利慶太との絡みだったと記憶しているが、ネットで調べてみると、1963年の日生劇場こけら落としにベルリン・ドイツ・オペラを招き、それには吉田秀和が絡んでいたけれども、当時吉田秀和がお世話になった浅利慶太に頭が上がらなくなったといわれているとのこと。浅利慶太中曽根康弘のブレーンとして有名であり、その浅利とつながりを持つ吉田秀和中村とうようが批判したものだったと思う。


 前にも書いたけれども、かつてクラシック音楽の評論家連中にはソ連や東欧のシンパが多く*4ソ連政府が推進していた「社会主義リアリズム」を公然と信奉する者も少なくなかったが*5吉田秀和はリベラル系で、60年代からソ連政府の芸術への介入を(現在の目から見るとやや腰が引けているようにも見えるけれども)批判していた。まあ「右」からも「左」からも叩かれやすい人だとはいえ、それは「大御所」と呼ばれる人の宿命だろう。もちろん吉田秀和には批判されてしかるべき点は多々あるのだろうとは思うが、中村とうようの批判がいささか「型にはまった」ものだという印象を受けたのだった。ここで、共産党支持者と「新左翼」の流れを汲む「小沢信者」との対立とのアナロジーがついつい頭に浮かんでしまうが、もちろんそういう「型にはまった」考え方は誤りだろう。たとえば江川紹子は大のオペラファンらしいが、「小沢信者」でもある。人は一人一人、みんな違うのだ。

*1:中村市、東洋町の地名や吉田東洋からの連想。

*2:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110722/1311261926

*3:80年代頃には、朝日新聞の「音楽展望」でたまに政治的な話題に触れていたが。

*4:特にNHK-FMクラシック音楽番組は、親ソ・親東欧の評論家たちが牛耳っていた。

*5:一方、NHKにはほとんど出演しなかった人の中には、宇野功芳のような極右もいる。