kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

1966年の日本共産党の「ジャズ」観に呆れた

 昨日(3/14)、日本共産党の機関紙『しんぶん赤旗』が堤未果の排外主義本を批判するどころか褒めそやしていた件に触れたが、その共産党は半世紀前に下記ツイートに示されるような「音楽観」を持っていたのだった。元共産党東京区議(現無所属)の松崎いたる氏のツイートより。

 

 

 なんじゃそれ。昨年夏に知った70年代の新日本新書『愛とモラル』の一件を思い出した。

 

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 日本共産党という政党は民主集中制にあぐらをかいて、つまり執行部が党員や支持者から批判されないのをいいことにして、過去の自分たちの誤りに対する自己批判を全然行わずに「黒歴史」にしてしまう悪弊がある。

 私はかつて共産党支持者の方から「社民の人間は民主集中制の党内のことに容喙するな」と言われてからしばらく黙っていた時期があるが、2015年に共産党が「野党共闘」路線に踏み切って以来、共闘しようという政党なら正面切った批判に晒されて当然だと思い、同党を批判するようになった。これを「反共」というのなら、共産主義共産党の方が間違っているだけの話だ。

 1966年の時点での日本共産党のジャズに関する見解は、スターリニズムや当時進行形だった文化大革命を思い出させるものだ。当時の日本共産党は既にスターリニズムを批判していたし、文革もリアルタイムで批判していたはずだが、「人の振り見て我が振り直せ」が全然できていなかったと総括されなければなるまい。

 ジャズに対する批判は、ジャズの要素を取り入れた例えばラヴェルストラヴィンスキー(ロシア出身だがソ連には一度しか訪問したことがない)の音楽にも適用されるはずであって、要するに「社会主義リアリズム」の思想の反映だ。この思想のもとでは、音楽を含む芸術は革命に奉仕されなければならない。とんでもないドグマだが、日本でも70年代まではたとえばNHKのFM番組でクラシック音楽を解説していた教条主義的な左翼評論家たちの間で広く信奉されていたはずだ。現在の日本共産党委員長である志位和夫が愛好するショスタコーヴィチも、スターリニズムの時代には「退廃」を批判されて「面従腹背」の音楽という音楽史上でも稀に見る独自の作風につながった。

 日本共産党が本気で「野党共闘」で政権への参画を目指すのであれば、最低でも外部からの批判に真摯に向き合う態度が必要だと思うが、残念ながら現在の同党にはそうした姿勢が全然感じられない。芸術にせよLGBTにせよ原発にせよ、共産党には「叩けば埃が出る」ところだらけであるにもかかわらず。

 おそらく民主集中制のドグマに党の執行部が守られている形なのだろうが、いい加減その誤ったドグマを打破すべき時期だ。それができなければ日本共産党に未来はない。