kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

天皇制と共産党と山本太郎と

 下記ツイートからは、いやでも2人の人物の名前を思い出さずにはいられない。

 

 

 小選挙区制を推進した学者といえば山口二郎、同じく小選挙区制を推進した政治家といえば小沢一郎だ。

 山口二郎市民連合の中核をなしているようにしか見えないし、小沢一郎は小政党にいた時期が長かったが、紆余曲折を経て野党第一党である立憲民主党入りした。それ以前にも2003〜2012年には民主党にいたし、政界入りから1993年までは政権与党の自民党にいた。

 現在は木下ちがや(こたつぬこ)氏も「野党共闘に遠心力が働いている」と書くようになったが、人間社会に働く力によって必然的にこういう情勢に立ち至ったとみるほかない。「野党共闘原理主義」はもはや通用しない。

 私がずっと持っている意見は、多種多様な潜在能力を持っているはずの人間一人一人が適材適所で能力を発揮していけるような社会がもっとも望ましく、全体主義だの権威主義だのは前述の好ましい社会にとっては全く望ましいイズムだというものだ。

 残念ながら、世の中には自らの能力を世のために人のために活かすよりも、強力な指導者に身を委ねて楽をしたいと考える人たちが多い。そういう人たちが特定の指導者や団体の「信者」になる。その一方、自らが支配者あるいは権力者となって人々の上に君臨したいと考える、権力志向の強い人間も少数いる。あるいは、自らが王様になるのではなく、王様を思うがままに操縦して(=御輿を担いで)自らの野望を達成しようとする人間もいる。あれっ、また小沢一郎が出てきたぞ(笑)

 できるだけ多くの人たちが「個の確立」を目指すようになる、少なくともその流れがこの国ではっきり見られるようになる時くらいまでは生きていたいものだと思っているが、それを見るまで生きていられるかどうか微妙になってきた。というのは、歴史は決して前進一方で進むのではなく、しばしば停滞の時代や反動の時代、時には「崩壊の時代」(この言葉を用いるのは久しぶりかもしれない)があって、現在はそのいずれかの時期に該当すると思われるからだ。

 日本における権威主義を温存している代表的なものは天皇制だろう。

 三省堂書店の神保町店が建て替えのために閉店となる3日前に、同店で立花隆の『日本共産党の研究』(講談社文庫、全3巻)を買った。『文藝春秋』の1975年12月号から1977年12月号まで連載され、翌1978年に講談社から単行本発行、1983年に講談社文庫入りした。私は戦前の共産党については、共産党シンパの松本清張が書いた『昭和史発掘』(文春文庫, 全9巻)を既に図書館本で読んだが、立花本と同時に清張の『昭和史発掘』第3巻(「スパイ "M" の謀略」が収録された巻)も買った。こちらは『週刊文春』1964年7月6日号から1971年4月12日号まで連載され、単行本及び文庫本は立花の講談社とは違って文春から出ている。「スパイ "M" の謀略」は1966年に書かれており、それによるとスパイMの本名が飯塚盈延(1902-1965)であることは、戦前からの共産党員だった神山茂夫(1905-1974。戦後の1954年に一度共産党を除名され、その後1958年に復党したものの1964年に再度除名)が最初の除名の翌年に発行された『文藝春秋臨時増刊』1955年8月号で初めて明らかにされたという*1。しかし清張は飯塚の出身地を突き止めることには失敗している。飯塚は愛媛県出身だったが、清張は彼が新潟県身ではないかと推測していた。なお清張は最晩年に飯塚をモデルとした「『隠り人』日記抄」という短篇小説を書いていて、そこでは彼が愛媛県出身で晩年は北海道に隠棲していたことが書かれていたはずだ*2。立花本のスパイMの項はまだ読んでいない。

 共産党シンパだった清張に対して立花は共産党批判の立場から書いたから、1970年代後半に立花の著書は共産党から「特高史観」だとして厳しく批判された。

 共産党系と見られるこたつぬこ氏が西岡研介氏の下記ツイートをリツイートしているのを発見した。

 

 

 「日本共産党の研究」は「田中角栄研究」と「中核VS革マル」が並行して書かれたすぐあとに連載が開始された。現在の共産党系の人たちにとって立花本はいかなる位置づけがされているのだろうか。また、5月23日発売予定という中北浩爾『日本共産党』(中公新書)にはどんなことが書かれているのだろうか。興味津々だ。

 

 話がだいぶ逸れた。立花隆天皇制への言及を引用しようとしていたのだった。

 立花は『日本共産党の研究』で、「三つの天皇制」という文章を書いている。これは雑誌発表直後に共産党の理論誌『前衛』で厳しく批判されたもののようだ*3。以下、講談社文庫版から引用する。

 

 天皇制について語るとき、三つの天皇制を区別しなければならない。一つは、明治憲法下の政治制度としての天皇制である。政治権力が天皇天皇に直属した軍部と官僚に集中するという特殊な政治機構がそれである。

 第二は、ここで述べられている、民族の母斑のような歴史的国民意識における天皇制である。これは、最近、共産党が“天皇宗”と名づけ、「天皇宗には反対しない」と寛容な態度を示している対象である。

 第三は、日本人の精神構造における天皇制である。これは、丸山真男が「超国家主義の心理と論理」において犀利に分析してみせたもので、“内なる天皇制”といいかえてもよい。要するに、上の者にはあくまで従い、下の者にはあくまで従わせたがる、いまなお日本社会に普遍的な心情である。上の者に従うことによって、自由で主体的な判断を回避し、それを回避することによって、同時に責任を取ることも回避することができる(自由な主体性がなければ責任はない)から、社会全体を貫く無責任体制ができあがる。下の者をとことん従わせることによって、上の者から受けた抑圧感を発散させ、下へ下へと抑圧行為が拡大再生産されていく。つまり、上の者へのマゾヒズムが下の者へのサディズムに転化され、この両者のバランスによって日本人の精神構造はある種の安定が保たれているということだ。

 

立花隆日本共産党の研究(一)』(講談社文庫,1983)191-192頁)

 

 上記は、今から46年前の1976年に書かれた文章である。立花のいう「天皇制の第一の側面」は、その31年前、今から77年前の敗戦によって終わった。

 興味深いのは第二と第三の側面だ。「天皇宗」なんて言葉は見たことも聞いたこともないし、この言葉でネット検索をかけても何も出てこなかった。共産党がこのことばで表現したという「第二の天皇制」の「民族の母斑のような歴史的国民意識」は、「母斑」が相当薄れてきているように思われる。今のネトウヨの多くが天皇や皇族や天皇制を屁とも思っていないことは周知だ。むしろ、一時期「リベラル・左派」の間で前天皇(いわゆる「上皇」)や前皇后(同「上皇后」)を安倍晋三に対抗する人士として持ち上げた悪弊か、それとも「リベラル・左派」の人口構成比が年々高年齢化しているせいか、「リベラル・左派」層で「第二の側面」がそれなりに生き残っているように見える。ある時期、それは今世紀後半になるか来世紀以降になるかはわからないが、天皇制終焉の日が来るのではないかと予測される。残念ながらその日に立ち会うことはできそうにもないが。

 このように消滅への道を確実に歩んでいる「第二の天皇制」と対照的なのが「第三の天皇制」だ。この「内なる天皇制」は弱まるどころか逆に強まっているように見える。

 立花隆は(執筆時点までの)共産党と「第三の天皇制」を結びつけて論じている。以下引用する。

 

 この第三の天皇制と共産党とはどういう関係にあったのだろうか。民主集中制の説明のところですでに述べたように、この精神構造は共産党の組織の中でそっくりそのまま生かされていたし、いまも生きている。共産党があれだけ果敢に第一の天皇制と闘えた理由の一つは、ここに見出すことができるかもしれない。共産党がもう一つの天皇制組織だったということである。

 

立花隆日本共産党の研究(一)』(講談社,1983)194頁)

 

 共産党内では現在も民主集中制がとられてはいるけれども、民主集中制は党員ではない支持者やシンパにまでは及ばないから、支持者やシンパあるいは「信者」には様々な人たちがいる。

 まず民主集中制の支持者がいるのは当然だが、民主集中制の批判者もそれなりにいる。レーニンが唱えた民主集中制を批判したことで知られるトロツキーについて、日本共産党は正しく再評価すべきだと主張する人もいる*4。最近興味深いのはプーチンのロシアによるウクライナ侵略の件で、日本共産党は日本の政党の中でもっとも徹底したロシア批判を行っているとして私は評価している。しかし、これまで共産党の主張ややることなすことに大部分盲従し、一般人は誰も読まない理論月刊誌『前衛』にまで目を通してきたはずのさる「共産党『信者』」もしくは「共産趣味者」が、ことウクライナ戦争に対する共産党の姿勢に全く同調しないという珍妙な現象が観察される。当該の人士が頻繁にコメント*5idコールをしてくれるおかげで私はそれを知ることができるのだが、この人がもともと、北朝鮮を擁護したり、中国における少数民族弾圧を擁護したりするなど、それらに対する日本共産党の立場とは相容れない主張をこれまでにもしてきたことを私は知っており、なおかつこの人の心性を心底から軽蔑しているので、全く驚いていない。この人は過度にサディスティックな心性の持ち主なのだ。私がこの人から連想するのは、中国での侵略戦争日本兵が犯した残虐な戦争犯罪の数々である。

 一方、民主集中制を批判する共産党支持者は、私の知る限り例外なく、ウクライナ戦争においてロシアの侵略行為を一方的に批判している。つまり、民主集中制の束縛を受けることなく、自身の意見として大国の覇権主義は絶対に許さないという立場に立っているのである。こういう人たちの比率が増えていけば、共産党にも明るい展望が開ける日がくるかもしれないと私は考えている。むしろ現在の共産党執行部の方が、軽率に小沢一郎に説得されたりするなど、問題のある言動が少なくないのではなかろうか。

 現在、かつての共産党以上に立花隆のいう「第三の天皇制」を具現している政党がある。ほかならぬ元号を党名に冠したあの政党だ。教祖及び党への批判者に対する「信者」たちの態度は、「上の者へのマゾヒズムが下の者へのサディズムに転化される」あり方そのものだといえよう。

 

 最近立民支持を止めたらしい神子島慶洋氏が山本太郎「信者」を批判する下記ブログ記事を公開している。

 

ameblo.jp

 

 タイトルにも示されている山本太郎「信者」批判にはうなずけるが、下記の部分は私とは認識が異なる。

 

オザシンもそうだったが、個人的には山本氏本人よりも信者に問題があるように思われてならない。

 

出典:https://ameblo.jp/kagoyoshi/entry-12742142834.html

 

 これに対しては、そうではない、責任は上に行けば行くほど重い、と言いたい。

 小沢一郎の場合、利用できるものはなんでも利用するという哲学によって「信者」を利用していた。しかし、「利用した」小沢の責任は妄想を抱いた「信者」の責任より明らかに重い。それを「小沢本人よりもオザシンに問題がある」と言ってしまったら、小沢の罪一等を減じることになるばかりか、「信者」は集団であるために一人一人に責任を負わせようとしたところで、その結果は誰も責任を取らないこととイコールなので、「無責任体制」を追認することになってしまう。

 山本太郎の場合は、利用しようとしただけの小沢一郎とは対照的に、自ら「信者」たちを扇動していた(る)のだから、明らかに小沢よりも悪質だ。但し、政権交代まで果たしたかつての民主党と、今のところ国会に5議席しか持っておらず、参院選後には8議席程度に増えると思われるとは言ってもかつての民主党には到底及ばないので、教祖の悪質さと影響力を掛け算すると、民主党の代表及び幹事長を長年務めた小沢一郎の方がずっと責任が重いことになる。

 どちらの場合にしても信者よりも教祖の方が責任が重いことは明らかだが、それよりもさらに大きな問題は、丸山真男が指摘してそれを立花隆が引用した「内なる天皇制」だと私は確信する。

 1970年代の少年時代に、あれほど広く見られた(と思っていた)「民族の母斑のような歴史的国民意識における天皇制」の母斑がすっかり薄くなる一方、一頃よりも自由にものが言える空気が後退して、権威主義に身を任せる風潮が強まってきたように思われる現在、「内なる天皇制」こそこの国の人間にとって克服すべき対象の最たるものなのではないか。そのような考えを持つに至った今日この頃である。

*1:松本清張『昭和史発掘』(文春文庫新装版第3巻,2005)446頁。

*2:この短篇が収録された『草の径』(文春文庫)も図書館本で読んだだけなので、記憶に頼って書いた。

*3:論文の中身は把握していない。

*4:この件からいつも連想することだが、日本共産党はいい加減に伊藤律の名誉回復をすべきではないかと私は思っている。

*5:なお、当該の人士からのコメントは、ある時期以降は一切承認していないので、読者の目に触れる機会はない。当該の人士を宣伝する愚を避けるためである。