kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

星野智幸氏は2013年に「まず、自分の中にある依存症を各々が見つめればよいだけだから」と書いて、状況を甘く見てしまったところに問題があったのではないか

 月末で朝日新聞デジタルのプレゼント枠を4件も残しているので、月が変わるまでにプレゼント機能を2件も使える絶好のチャンスでもあり、取り上げたいとは思っていたた。

 私は2013年末に朝日新聞の紙面*1星野智幸の夏季論考を読んで非常に感激し、弊ブログで絶賛したことがある。それが今回再度有料記事になっていた。以下に有料記事のプレゼントのリンクを示す。有効期限は8月31日午前7時50分。

 

digital.asahi.com

 

 当時公開した弊ブログの記事は下記。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 当時感激した私は星野氏の小説やエッセイも読むようになり、氏のTwitterアカウント(当時)もしばしば見に行くようになった。しかし、読書記録を見ると最後に星野氏の本を読んだ日付が2020年2月23日になっている。コロナ禍が本格化する直前だ。コロナを境にあまり読まなくなった他の小説家として村上春樹がいるが、それでも村上の本やエッセイはコロナ禍後も時々は読んでいる。

 そして、前記リンクに示した2013年の感想文の末尾に、星野氏の論考のうち物足りなく思った部分について書いていた。それについては後述する。

 今回話題になり、今や私にとっての「敵方」ともいうべきこたつぬこ(木下ちがや)氏も絶賛する、同じ朝日に掲載された星野氏の新たな論考に、本記事2件目の有料記事プレゼント枠を使い、以下にリンクを示す。有効期限は31日午前7時51分。

 

digital.asahi.com

 

 この星野氏の論考を含む、弊ブログにいただいたsuterakusoさんのコメントを以下に紹介する。弊ブログのコメント欄に関する、多くの読者の方にとっては意味不明の部分もあろうかと思うが、コメントは全文引用する。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 suterakuso

↑ あれま。

反差別的な話は今はこちらですべき流れではいと思っていたので、そいういうこじつけコメントや憂さ晴らしコメントは、ここ数日つけにきていませんでした。ブコメの方は、そういうのを割とたくさんつけて、面白くない経緯で記事まで書いたのですけどね。こんな粘着コメンターがいるもんだから、こういう人を呼び込んでしまったんですかねというのは自意識過剰でしょうね。

コメント欄を遡って確認するのは手間なので疑問のまま置いときますが、この、勝手に頓珍漢な議論の枠を設定するのって、金柑氏でしたっけ、疑問氏でしたっけ、特徴的な語尾の人でしたっけ。

私が記事を書いた後に、その記事の内容に直結する記事がバズっていて、それが私の記事の主張と真反対の方向で共感を集めていたので、なんでこんな人がこんなことを今さらここで言って、こんな結果をもたらしているのかなと思っているところです。この記事です。↓

言葉を消費されて 「正義」に依存し個を捨てるリベラル 星野智幸朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASS8V026WS8VUPQJ006M.html

kojitakenさんも読了済みの記事でしょうね。幸い、プレゼント機能で全部読むことができたのですが、その後に、コメントプラスがたくさんついていて、それは今はもう読むことができなくて、少しどんなことを書いているのか気になります。江川紹子のコメントから読んでいません。書き出しを見る限り、読んでも、ああ、その程度の話かと思いそうではあるのですが…。

これに対する反響で、一番納得感があるのは、次の平野啓一郎のツイートです。

https://x.com/hiranok/status/1828581602613666289

あとは、朝日の記事で、次の記事を見つけて続きが読みたいと思ったのですが、これは、見つけた時には誰かのプレゼントが切れた後で、全文を読むことができませんでした。

市川沙央さんが見つめるパラ 求められる一丁目一番地と「100点」
https://www.asahi.com/articles/ASS8Q2FCJS8QUTQP00HM.html

と、結局、コメントからのこじつけで、記事には何も関係ない、それも控えていた方がよいなと思っていた内容のあつかましいコメントで失礼しました。

 

 上記コメントからリンクされた平野啓一郎氏のXは下記。

 

 

 埋め込みリンクでは途中までしか読めないので、全文読みたい方はリンク先をご覧ください。

 また上記コメント中にある「江川紹子のコメント」は失笑ものだった。そのコメント中で江川氏は実名を挙げずに池田香代子氏の「ア ベ シ ネ」ツイート(当時)をdisっているが、2010年代初期に池田氏のオザシン仲間だったのがほかならぬ江川氏自身であり、当時の彼ら(江川氏と池田氏)こそ今回の星野氏の論考の批判の対象にずばり当てはまる人たちだった。

 私の感想はおそらくsuterakusoさんとも平野啓一郎氏ともかなり違う。私は11年前に書いた自らの感想文の末尾を読み返して、当時感じた懸念が出てしまったんだなと思った。以下に2013年12月25日付の弊ブログ記事の末尾を再掲する。

 

 救いがないのは、安倍政権を批判する人たちの間にも、「同調圧力」の異常に強いサークルを作りたがる傾向があることだ。「小沢信者」の集団などその最たるものであり、その異常さは、国政選挙における日本未来の党だの生活の党だのの惨敗を、「不正選挙のせいだ」「集票マシン『ムサシ』(以下略)」などといった妄言で言い繕おうとする妄言・妄動からも明らかであろう。幸いにも彼らの「教団」は消滅寸前だが、「日本人」信仰は膨れ上がるばかりである。

 星野智幸氏の寄稿の結びの部分を引用する。

 「日本人」信仰は、そんな瀬戸際の人たちに、安らぎをもたらしてくれるのである。安倍政権を支えているのも、安定を切望するこのメンタリティーだろう。

 

 もちろん、このように有権者が自ら主体を放棄した社会では、民主主義を維持するのは難しい。民主主義は、自分のことは自分で決定するという権利と責任を、原則とした制度だから。だが、進んで「日本人」信仰を求め、緩やかに洗脳されているこの社会は、その権利と責任の孤独に耐えられなくなりつつある。自由を失うという代償を払ってでも、信仰と洗脳がもたらす安心に浸っていたいのだ。それがたんなる依存症の中毒状態であることは、言うまでもない。みんなでいっせいに依存状態に陥っているために、自覚できないだけである。

 

 この状態を変えようとするなら、強権的な政権を批判するだけでは不十分だ。それをどこかで求め受け入れてしまう、この社会一人ひとりのメンタリティーを転換する必要がある。難しくはない。まず、自分の中にある依存性を各々が見つめればよいだけだから。

 

朝日新聞 2013年12月25日付オピニオン面掲載「『宗教国家』日本」(星野智幸)より)

 

 正直言って、この最後のセンテンスには物足りなさが残る。一人一人が自分を見つめるだけではなお不十分である。集団に「同調圧力」が生じる場合、必ずそれを強めようと画策する人間がいるわけで、そういう不逞の輩と闘争し、それを打倒する必要があると思うのである。星野智幸氏が書くほど、ことは簡単ではないと私は思う。

 

URL: https://kojitaken.hatenablog.com/entry/20131225/1387930380

 

 上記引用文中には、今回朝日新聞デジタルの有料記事として再掲された2013年の星野氏の論考の有料部分を含むが、上記引用文は当時の朝日新聞の紙媒体から手入力したもののはずなので、そのまま再掲したことをおことわりしておく。

 今回の星野氏の論考のタイトルに「『正義』に依存し個を捨てるリベラル」とある。このうち「『正義』に依存し」の部分ばかりが注目されているが、「個を捨てる」部分こそ星野氏の論点の核心だと私は考える。そして共産党の一連の除名・除籍問題や、立民や新選組にも広く見られるハラスメントの案件(維新や共産ではそれが極端なまでにひどい)に対する支持者たちの組織防衛志向の強い反応は、まさしく「個を捨てる」ことからこそ生じるものだ。星野氏はそれを嘆いているようにみえるが、その部分は私には全然「響かなかった」。それは、星野氏が11年前に「まず、自分の中にある依存症を各々が見つめればよいだけだから」と書いて、状況を甘く見てしまったところに問題があったと思う。

 私は「同調圧力をかける側を打倒するための不断の闘争が必要だ」という意味の、いかにも私らしい過激な文章を書いたわけだが、その確信は年々強まる一方だ。

 星野氏の論考に「立憲民主党」という党名が出てきて、その政党の支持者たちがdisられているので、立民支持層からは特に星野氏に対する反発が強いわけだが、今回の立民代表選についての彼らの数か月前からの意見表明を見ていると、星野氏の論考には、2013年の同じ氏の論考を踏まえて読むと、かなりの「理」があることが実感される。

 Xの立民支持層は右派に限らず主流派の人たちも組織防衛志向が極めて強く、立民に対する批判には過剰に反応する性癖がある。また党の体制に依存する志向も強いので、現在であれば泉執行部に対する批判が特に嫌われる。それに乗じようとしたのが他ならぬ泉健太自身であって、7月の都知事選で蓮舫が惨敗するまでは、「立民の党勢をここまで上向かせた自分が代表に再選されるのは当然」という空気を作ってなし崩しの再選を狙っていた。

 しかし、蓮舫が石丸伸二にまで負けるという予想外の惨敗に終わったことを機に、泉のシナリオは崩れた。前代表の枝野幸男がそれ以前から「任期中は代表を支えるべきだが、任期満了なのだから代表を選び直すべきだ」と主張していたにもかかわらず、立民支持層右派と中間派の大部分は「枝野は代表選には出ないで泉を支え続ける」と勝手に思い込んだ。また、蓮舫惨敗の責任が重いはずの野田佳彦(とはいえ彼のグループが衆院東京15区補選の勝利とそれに伴う立民の政党支持率の一時的上昇にも大きく寄与したのだったが)も、昨日(8/29)代表選への出馬を表明した。

 せつなりっとく氏が下記のXをポストしている。

 

 

 

 

 

 ここらへんには笑ってしまったが、それは本論ではない。

 

 

 

 この最後にリンクしたXがポイントだ。

 「政治家を志して実際に衆院小選挙区制で当選しちゃうような人」にはそもそも権力志向が人並み外れて強いのだ。泉健太もその例外でないことはいうまでもないが、今回の代表選で注目すべきは、枝野幸男野田佳彦が自らの権力欲をあからさまに世に示してみせたことだ。そこに今回の代表選が大きな意義を持ち始めている意味があると私は考えている。そしてシャンシャンで泉再選の代表選にならなくて本当に良かったと思う。うがった見方かもしれないが、枝野と野田は政治家という人種にいかに権力欲が強いかを身をもって示したと言える。そして、泉健太もまた枝野や野田に負けないくらい強烈な「権力欲の塊」なのだ。

 思い出されるのは、自らの権力欲の強さを正直に書いた立民・高野勇斗江東区議のXだ。高野氏にせよ彼が当選に尽力した衆院議員の酒井菜摘にせよ、人並み外れて権力欲が強いことにかけては前記の泉や枝野や野田と同様だろう。

 彼ら政治家たちにとっては自らの権力欲をいかに統御するかが課題になるし、本来彼らの政党及びその支持者に求められるのは、彼らの権力欲の暴走にいかに歯止めをかける仕組みづくりを行うかではないだろうか。つまり、立憲民主党という党名に含まれる「立憲(主義)」を党の仕組みにも導入する必要があるということだ。間違っても政治家たちを妄信(盲信)するような愚挙を犯してはならないはずなのだが、彼らにはそれが全然できていないように私にはみえる。

 そして、党の運営を民主化するひとつの糸口が、党の総支部長すなわち衆院選の公認候補者選びのプロセスを透明化することではないだろうか。

 衆院愛知15区の立民総支部長の件は、反差別としての側面よりもそちらが本当の論点ではないかと思う。この件を「レイシスト呼ばわり」の当否の問題にしてしまうのは、組織防衛志向の強い(つまり同調圧力をかけたがる側の)人たちによる問題の矮小化にほかならないと考える次第。

 こういう件については、立民についてならまだ問題提起ができる。共産党については、分派禁止条項を伴う民主集中制という大きな障壁があるため、その問題提起さえできない。だから、地域の共産党の人たちを評価して地方選なら投票もする私でも、国政政党としての共産党の党内ガバナンスは全く受けつけないことを最後に言い添えておく。

*1:当時はまだ紙媒体のみの購読者だった。現在は電子媒体のみの購読者で、毎日新聞の電子媒体と併読している。