kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

森喜朗が組織委員長辞任を表明するも後継人事でゴタゴタ。しかし「森の伐採」に走った稲田朋美や小池百合子らへの過大評価は禁物

 森喜朗は東京オリ・パラ組織委員会委員長辞任を表明したが、森が後任の会長に極右の川淵三郎を押し込もうとしたところ、報じられるところによれば官邸(菅義偉)の介入によって川淵会長案は白紙に戻された。

 その間マスメディアの報道は、朝日から産経に至るまで「後継は川淵氏」として森(及び当初は森の言いなりになっていた菅)による強引な既成事実づくりを唯々諾々と承認してきたが、川淵が自らと森との癒着をあまりにも生々しく喋り過ぎた。また川淵自身が極右月刊誌『WILL』の愛読者であることを初めとして、安倍晋三を思わせるような極右である事実が次々と指摘された。さすがにこれでは国内外からの厳しい批判はかわせず、現在下げ止まっている内閣支持率が三たび下落に転じることは避けられないと判断した菅義偉が、本来の「持ち味」であるパワハラの封印を解いて、川淵の次期会長案を白紙に戻させたものだろう。しかしこの菅の行為も「スポーツニッポン」の藤山健二編集委員が指摘する*1通り、五輪憲章に違反する疑いが強い。

 この間の経緯はわかりにくかった。最初に森が「謝罪会見」を行った時にはIOCはこれを容認して「一件落着」とした。IOCが森らの「毒まんじゅう」を食った腐敗した組織であることが改めて示された形だったが、図に乗った森がさらに暴言を連発するにつれて国際的な批判、ことに業績悪化を懸念する五輪のテレビ放送のスポンサーからの圧力を受けて、一転して森を切り捨てる方針に転じた。国内でも森への批判が強まったが、それに便乗する形で、従来極右で売ってきて、故加藤紘一の実家が放火された時にこれを笑いものにした稲田朋美までもが森を批判するようになった。この一件で稲田を「自派閥の重鎮にあそこまでしっかり言えるのは、すごいことだ*2などと評価した人がいるので、これに対抗するために、過去何度も蒸し返した上記加藤紘一の実家の件について書いた過去の記事へのリンクを改めて示しておく。

 

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 また、森、IOC会長のバッハ、橋本聖子の3者とともに「4者会談」を行う予定になっていた東京都知事小池百合子がこの会談をボイコットする意向を示したことを「森氏に対するいわば最後通牒的な『ハチの一刺し』になった」*3と書いたブロガーもいた。

 前記の稲田朋美を「すごい」と称賛したTwitterer氏も小池を積極的に評価している*4。氏は、下記の呟きも発している。

 

 

 このツイートの主張は、まあその通りだろうと私も思う。

 しかし現在は、長年続いた自民党的な「強烈な家父長制のもとで成り立って」きた社会構造が大きく揺らいでいる時期なのではないか。

 2000年には密室での談合の結果として総理大臣になった森喜朗が、自らの首相就任時と同じやり方で川淵三郎を次期会長に押し込もうとして失敗したのが今回の一件だろう。つまり、2000年と2021年との間の21年間で、それだけ社会の構造が大きく変化したということだ。

 この流れは、遅かれ早かれ、前記の自民党的な「強烈な家父長制のもとで成り立ってきた社会構造」を突き崩す。そのような時代になっても生き残れるための行動を、かつて加藤紘一の実家への放火を笑いものにした稲田朋美も、4年前に「排除発言」をやらかして総理大臣への道が遠のいた小池百合子もやったと見るべきだ。党内での「家父長制」の障壁は確かにあるが、「家父長制」自体が存続の危機に晒されている。稲田や小池がこの両方の力を秤にかけているのだ。今は同じくらいか、自民党内にあっては「家父長制」の惰性力の方が強いだろうが、徐々にそれは弱まっていき、代わりに「家父長制」を崩す力が強まってきている。それらを計算しているに違いない彼らの行動には確かに決断力は必要だが、勇気はさほど必要としない。

 稲田や小池と比較すると、野田聖子などは時流を読む能力が劣る政治家だろうし、杉田水脈だの、ましてや第1次安倍内閣首相補佐官だった山谷えり子だのは早晩失脚は免れない「過去の人」だろう。男性でも城内実あたりはもう政治人生の先がない人間だ。そんな落伍者たちに比較すると稲田だの小池だのは小利口かもしれないが、だからといって過大評価する必要などない。

 しばらく経てば彼らの評価はネガティブなものとして定まるだろう。今はまだ過渡期(「混沌の時代」)だが。過渡期だからこそ森の後任がすぐには決まらずゴタゴタが続いている。この過渡期が終わる時には、今度こそ確かに自民党政治を終わらせなければならない。

国内の新型コロナウイルス感染症週間新規陽性者数11,571人、死亡者数585人(2021/2/6-12)〜 週間死亡者数が18週ぶりに減少

 ようやく新型コロナウイルス感染症第3波による死亡者数がピークを越えた。下記は、NHKがまとめた日々の新規陽性者数及び死亡者数のデータ*1から、昨年10月3日以降の週間での数の推移、昨年3月以降の7日間移動平均値の推移を線形表示と対数表示で示した、計3種類のグラフを示す(いずれも2月12日まで)。

 

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日本国内のCOVID-19の週間新規陽性者数と週間死亡者数 (2020/10/3-2021/2/12, NHK)

 

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日本国内のCOVID-19新規陽性者数と死亡者数 (2020/3-2021/2, 7日間移動平均線形=NHK)

 

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国内のCOVID-19新規陽性者数及び死亡者数 (2020/3-2021/2, 7日間移動平均対数=NHK)

 

 7日間移動平均による1日の死亡者数のピークは2月7日の98.3人がピークだった。新規陽性者の7日間移動平均のピークは1月11日(6443人)だったから、それから25日遅れた。

 第1波の時には陽性者数が昨年4月15日に540人、死亡者数が同5月3日に23.4人でそれぞれピークだった。死亡者数の時間遅れは18日だった。また第2波の時には陽性者数が昨年8月9日に1381人、死亡者数が同8月31日から9月2日まで3日続けて13.9人でピークだった。この中間の9月1日をピークとすると、陽性者数のピークからの時間遅れは23日だった。以上3回の波から、死亡者数のピークは新規陽性者数のピークから2〜4週間遅れるとみられる。発表される新規陽性者数が、その2週間前の感染状況を反映しているといわれるから、不幸にも亡くなる方が罹患していた期間の中央値は約4〜6週間の間にあることになる。ただ、それよりもっと長患いして亡くなられる方も少なくないから、死亡者数が減少しながらもなお多い時期がまだしばらく続いたあと、3月に入ると急速に減少すると予想される。なぜなら第1波の死亡者数は6月に急減したからだ。第3波は第1波からちょうど9か月遅れている。

 第3波の新規陽性者の曲線は、一番下の片対数グラフで見るとこのところずっと直線的に、つまり指数関数的に下がっている。その傾きは、今回より厳しい人の移動の制限を課した第1波の緊急事態宣言下よりは小さいが、政府(安倍政権と菅政権)が何もしなかった第2波よりは大きい。

 こういうグラフを見るだけでも、私などは西浦博が専門とする理論疫学(数理疫学)の威力を思い知るのだが、世の中には、政府や東京都(小池百合子)が東京五輪を開催するために結果を操作しているなどとの陰謀論が絶えない。

 この陰謀論には「右」も「左」もない。最近は急減しているから「左」に限らない反政権側からのこの手の陰謀論が目立つが、感染が急拡大した頃には、あの京大の万年准教授・宮沢孝幸が福岡のローカルテレビ番組に出演して、東京都の感染者数は都知事小池百合子が「かさ増しして情報操作している可能性がある」と口走ったことがあった。弊ブログの下記記事(2020年12月29日)で取り上げた。

 

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 こいつ、本当に学者なのかと思わずにはいられない。

 最近、宮沢とは逆の立場から宮沢そっくりな陰謀論かましたのが「きっこ」だった。宮沢やきっこに限らず、「右」だろうが「左」だろうがすぐに陰謀論に傾く論者は信頼できない。

 

 危うく過去1週間の陽性者数と死亡者数を記録するのを忘れるところだった。新規陽性者数は4週連続で減少し、死亡者数は実に18週ぶりに減少に転じた。26日(土)から212日(金)までの1週間の新規陽性者数は11,571人(前週比34.6%減)、死亡者数は585人(同14.6%減)だった。死亡者数を新規陽性者数で割った値は5.06%で、前週の3.87%より大幅に上がった。

えっ、「ちきりん」がリベラルだって?

 平河エリ氏の下記ツイートを見て、目が点になった。

 

 

 えっ、「ちきりん」がリベラルだって?

 そんなふうに思う人がこの世にいるとは……

 氏は「ネオリベラル」だとは思うけど、ネオリベって呼び方はリベラルみたいだけど実は対極に位置するからね。

 しかし、それにしても……

 あまりのショックに言葉が出てこない。

ともに人間性が顔に表れている森喜朗と菅義偉の「没落への道」

 森喜朗についてだけれど、テレビで森の顔が映し出されるといつも「こいつは人相が悪いよなあ」と思ってしまう。「40を過ぎたら顔に責任を持て」というリンカーンの言葉があるが、これはその前に「男は」という限定語があることから最近ではあまり使われないし、性別ばかりか顔を云々すること自体差別的だとされることが多い。

 しかしながら、性別の限定を入れるのは確かに差別的だろうが、ある程度以上の年齢になると生き方が人相に表れるというのは否定しがたいと私は思う。

 菅義偉が総理大臣になった頃、辺見庸が菅の顔を「特高顔」だと評したが、うまいこと言うなあと思った。実は私も以前から菅の人相が嫌いで嫌いでたまらなかったのだ。あれは後ろ暗さを感じさせずにはいられない人相だ。実際、菅は総理大臣になるや、安倍晋三からの申し送りではあるらしいが学術会議の任命問題でパワハラをやらかしてその人事を撤回しようともしなかった。また新型コロナウイルス感染症対策は何もしないばかりか明らかに逆効果である「GoToキャンペーン」に固執した結果、第3波だけで5千人以上もの死者を出した*1。ところがその一方で議論にはからっきし弱く、国会での答弁の時間は短いし、その短い答弁も何を言っているのかわからないことが多い。

 要するに菅とは頭が悪いけれども地位を笠に着たパワハラだけは得意な陰湿な人間だ。その陰惨な人間性は10年以上前に私が菅の顔を最初に見た時からはっきり顔に表れていた。

 森喜朗の場合は菅義偉のように陰々滅々とはしていないが、頭の悪さには昔から定評があり、しばしば「鮫の脳みそ」との言葉で語られた。そんな森に対するイライラを爆発させたのがエリートの加藤紘一だったが、2000年末の「加藤の乱」は失敗に終わった。当時から森の首に鈴をつけることは難しかったのだ。結局、昨日20年目を迎えた「えひめ丸事故」で、事故の一報を知りながらしばらくゴルフ場にとどまった行動が批判を浴びて内閣支持率が低下するなどして退陣に追い込まれた。

 菅と森とを比較すると、菅が「暗い馬鹿」なのに対して森は「明るい馬鹿」といったところだろうか。テレビで口を尖らせた森の顔が映ると、昔よく使われた「パッパラパー」*2という言葉を思い出す。もちろん大時代的な森の価値観は論外だが、ああいうのは時代とともに廃れていくものだろう。今では選択的夫婦別姓に反対する人は2割くらいしかいないし、日常生活で主に元号を使う人間も同じくらいしかいないのではないか*3。もちろん森は代えた方が良いというか代えるべきだが、今になって稲田朋美が森を批判したくらいで稲田をほめたたえるのもおかしい。稲田が「わきまえたい女でありたい」とTwitterで呟いたくらいで「勇気ある意見発信だ」などとは私は全く思わない。そもそも稲田の正体が「人気とりのための極右」に過ぎなかったことは今では明らかになりつつある。稲田は新たな時流に乗ろうとしているに過ぎない。

 時代の変化は、ある時期まではそれまで長く続いた因襲に押さえつけられてなかなか表に表れないが、ひとたびその因襲に亀裂が入り始めると、怒濤のように表面に出てくる*4。多くの人々が森喜朗批判へと舵を切ろうとしている今がその時期なのかもしれない。稲田朋美はおそらく、今までのような極右の演技をしているよりは、森喜朗を批判した方が楽なのではないか(しかも明らかにその方が得だ)。それくらい森を批判するためのポテンシャルの壁は下がってきている。

 森喜朗東京五輪組織委員会委員長辞任は、もはや時間の問題だろう。菅義偉政権の終焉も、そう遠い先の話ではない。

*1:昨日(2/10)も過去最多の121人の死亡者数が発表された。これで昨年10月以降の死者は5151人に達したが、最終的には第3波全体で6000人を超えるだろう。

*2:この言葉は1982年頃に流行したらしい。

*3:もちろん役所関係の書類など、元号の使用を事実上強制される場合は除く。

*4:それが政界で起きた一例が2017年の立憲民主党発足と衆院選での躍進に伴う旧民主・民進右派の没落だったのではないか。それが起きる直前まで、民進党内では「もっと右に寄らないから伸びない」という、前原誠司細野豪志長島昭久らの意見が幅を利かせていて、そのために岡田克也が代表辞任に追い込まれたが、いざ前原が民進党代表になって小池百合子の「希望の党」と合流し、小池が「排除発言」をやらかすと同時に政局が大きく動き、それまで右バネを働かせていた前原・細野・長島は居場所を失って四分五裂した。現在では民主・民進系の「右バネ」を働かせる中心人物は、彼ら3人ではなく国民民主党玉木雄一郎山尾志桜里になっているが、前原や細野らが民進党ででかい顔をしていた頃と比較すると、影響力の小ささは否めない。現在起きようとしている森喜朗菅義偉の没落も、それと同じパターンではないかと思えてならない。

第3波が流行後期に入るも、緊急事態宣言の拙速な前倒し解除などは避けよ。昨年5月以降の誤りを繰り返すな

 昨日(2/7)は、緊急事態宣言発出当時に予定された終了日だったが、延長されたために、期間の折り返し点に当たった。

 国内の新規陽性者は1631人、死亡者は52人だった。死亡者はどういうわけか土日の報告数が少ない傾向があるとはいえ、ようやく死亡者が減少する兆しが見えてきた。第3波の流行後期に入ったと思われる。

 ただ、気になるのは昨年5月の動きが繰り返されないかということだ。昨年5月には、当時の安倍政権が宣言の前倒しに躍起になり、結局前倒しされた。安倍晋三は事実上の収束を宣言し、それがGoToキャンペーンの実施を決定する口実、もとい根拠になった。GoToキャンペーンは流行の収束後に行うことになっていたが、安倍晋三が事実上の収束を宣言したために、キャンペーン実施のお墨付きが与えられたという理屈だ。

 こういう拙速が繰り返されてはならない。

 実際に起きたのは、GoToキャンペーンが実施される前の7月から第2波が立ち上がったことだ。しかし、一度ついた惰性力が変えられない「保守政治の法則」によって、GoToキャンペーンは予定通りどころか開始予定を8月1日から7月22日に前倒しして開始された。夏の間は、第2波に対する自治体の対策(飲食店への深夜営業への自粛要請など)があって新規陽性者は増えなかったが、政府(安倍政権及び菅政権)が何もしなかったために第2波の減衰は中途半端に終わり、秋に第3波が2回に分けて襲いかかってきた。

 以上の経緯で犯した誤りを繰り返さないことが何よりも求められる。

 特に、最高指導者が自らの政策に固執するという政治の進め方は、絶対に変えなければならない。菅義偉とはそのような政治を行う悪しきリーダーだから、絶対に退陣に追い込む必要がある。これが、今後の政局の喫緊の課題だ。

 だが、問題は次の政権を担う人間だ。こういう時にはカリスマ的指導者が一番いけない。それは「経済を回す」ことにばかり固執した菅義偉の失敗からいえることだ。政策決定には合理的な根拠が必要であり、権力者の意に沿わない政策が反故にされるようなことはあってはならない。

 だから維新だの、野党なら山本太郎だの、自民党なら河野太郎小泉進次郎だの、地方自治体であれば小池百合子だのといった、人気ばかりが先行した政治家たちは、この局面では必要ないどころか有害なのだ。さらにいえば、人気とりにばかり腐心する玉木雄一郎のような人間も有害だ。

 非常時には、暴走する恐れの強いカリスマリーダーは百害あって一利なしということだ。

四国新聞、四国放送etc.

 平井卓也の一族が支配する四国新聞は確かに「生意気」だし、私も平井卓也は死ぬほど大嫌いだけど。

 

 

 それをいうなら四国放送も「生意気」なのでは?

 そういや中国地方には山陽放送とか山陽新聞とかもある。これらも「生意気」かもしれない。どういうわけか香川は四国なのに山陽放送のエリア内。もちろん平井一族とは関係ない。山陽地方では中国新聞と、メディアじゃないけど中国銀行が「生意気」だしエリアが紛らわしい。

 平井一族はもっとスケールがでかい。西日本放送なんて超生意気だ。平井一族とは関係ないけど西日本新聞もそうかな。

 でも生意気さのチャンピオンはやはり世界日報だろう。邪悪さでも群を抜いている。

今年に入ってからのドイツのCOVID-19「致死率」が高かったのは、ドイツが日本より早く感染の急減期に入っていたからでは?

 本エントリでは、下記のツイートを批判する。

 

 

 上記ツイートに貼り付けられたグラフは、もしかしたら単純に3か月間の総死亡者数を同じ期間の総新規陽性者数で割り算したものではないだろうか。

 そうだとしたら、そのグラフに基づく議論は危険だと思う。

 計算法がそのようになっていることは、NHKのサイトのデータからそのように計算して得られる致死率とほぼ合っていることから推測される。それは、昨年1〜3月が2.95%、同4〜6月が5.49%、同7〜9月が0.92%、同10〜12月が1.26%、今年1月以降が1.71%となっている。昨年7〜9月までは私の計算と同じだし、同10〜12月と今年1月以降も0.1ポイントずつ違うだけだ。

 しかし、区切りをさらに細かくして昨年5月だけの日本国内の致死率を計算すると、実に17.8%になる(新規陽性者数2477人に対して死亡者441人)。これは昨年春の緊急事態宣言によって新規陽性者数が急減したものの、新規陽性者数のピークから平均で3週間から1か月程度遅れる死亡者数がピークを迎えたために多く出たためだ。高山医師が作成されたグラフの一番右にある今年1月以降というのは、1か月と数日でしかないから、このような短い期間での致死率を切り取った議論は大変危険だと考える次第だ。

 なお、昨年5月と同様の現象が現在も見られている。2月に入ってからまだ1週間だが、最初の6日間の発表から計算される「致死率」は4.46%だ(新規陽性者数13971人に対して死亡者623人)。だから、1月の致死率が1.47%だったのに対して、「1月以降」の致死率は1.71%に達してしまった。おそらく今年1〜3月の日本国内の致死率はかなり高い数字になるだろう。どのくらいになるかはわからないが*1

 また、昨年4〜6月の国内の致死率は5.49%だったけれども、区切りを5〜7月にすると致死率は一気に2.53%に落ちる。その前の昨年2〜4月の国内の致死率は3.17%だったから、「日本はずっと致死率が低かった」と主張できてしまう。

 おそらく、ドイツは日本より早く昨年11月か12月に感染の波のピークを迎え、1月はそれが過ぎて新規陽性者数が急減するものの、死亡者数が遅れて減少するために、致死率が見かけ上高く出る期間にあったのではないか。日本でも、2月だけの致死率なら相当に高い確率で5%を超えるだろうと私は予想している。

 以上の理由から、「日本は検査が少なく無症状感染者をちゃんと拾えていないと言われる割に致死率が低いのは、医療が効果的に行われていることと医療の質の高さから」だという結論を導くのは誤りだと考える。

 この例に限らず、致死率の議論は誤解を招きやすい。現在の状況とは異なるが、感染の急拡大期には致死率が見かけ上低く出るので、妙な「安心理論」が出てきやすい。昨年4月に緊急事態宣言が発出された前後がそうだったし、第2波が立ち上がった昨年7月は特にそうだった。この時期には「ウイルスが弱毒化した」という俗説*2が広まり、これが人々の気を緩ませる原因の一つになった。

 致死率の議論には慎重さが必要だ。

*1:こういう感染者の減少局面では,例の「K値」が威力を発揮してくれるかもしれない(笑)。

*2:ウイルスの弱毒化は、もっと長いタイムスケールにおいては有力な学説だが、昨年夏の感染状況に当てはまるエビデンスは全くない。