kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

孫崎享の『戦後史の正体』を絶賛していた岡留安則

 『戦後史の正体』(創元社,2012)の著者・孫崎享岡留安則の死を悼むツイートを発信した。

 

 

 そう、岡留は『戦後史の正体』を絶賛する書評を共同通信に書き、それが全国の地方紙に掲載されたのだった。すっかり忘れていたが、ネット検索をかけると7年前に私自身がそのことに関する記事をかなり書いていたのに参った。だが肝心の岡留による書評の原文にはたどり着けなかった。

 『戦後史の正体』は、2012年7月24日に発売された。この本を一言で言えば、戦後の日本の総理大臣を「対米追随派」と「自主独立派」とに分けた上で岸信介を後者に分類して絶賛するかたわら、日本国憲法をわずか7頁の「押しつけ憲法論」に基づく記述で片付けた、とんでもない右翼反動的な書物だ。

 私は現物を持っているが、押し入れの奥深くに眠っていて引っ張り出すのも面倒なので、当時この本を読んだ人が書いたブログ記事から、孫崎がどのように総理大臣を分類したかを示す。

 

iirei.hatenablog.com

 以下上記リンクから引用する。

 

 「戦後史の正体 1945−2012」は元外交官の孫崎享(まごさき・うける)さんの著作です。ことに、日本の外交とは、9割が対アメリカに精力が割かれるなかに於いて、アメリカが日本に押し付けてくる無理難題について、時の総理大臣がどう関わるかで、その総理の命運が左右されるという視点が斬新です。

 

 三つの反応があります。また、そのような反応を取った総理大臣を挙げますと(本P366−P368)

 

@対米自主派・・・積極的に現状を変えようと米国に働きかけた者
       重光葵(まもる)(この人は外務大臣)、石橋湛山岸信介佐藤栄作田中角栄細川護熙鳩山由紀夫など

 

@対米追随派・・・米国に従い、その信頼を得ることで国益を最大化しようとした者
       吉田茂池田勇人三木武夫中曽根康弘小泉純一郎など

 

@一部抵抗派・・・特定の問題について米国からの圧力に抵抗した者
       鈴木善幸竹下登橋本龍太郎福田康夫など

 

 『戦後史の正体』に対する批判は、かつて掃いて捨てるほど書いたから今回はこれ以上書かない。最近よく思うのは、2010年代の日本を暗転させて、年末に『崩壊元年』が始まった2012年に、なぜ日本国民は第2次安倍内閣の発足を許してしまったかのかということだ。

 孫崎は、1993年に「山本七平賞」を受賞した保守人士で、2002年から2009年まで防衛大学校の教授を務めていたこともある。人脈的には鳩山由紀夫シンパに属する人間で、鳩山を介した「おつきあい」で小沢一郎とつながった。孫崎が『戦後史の正体』を書いていた2012年前半には、小沢は配下の議員たちの離党(彼らは民主党を離党して「新党きづな」を立ち上げた)によって民主党内の権力抗争を勝ち抜く目算が狂い、自らも民主党を離党して「国民の生活が第一」を立ち上げざるを得なくなってしまった。当時、自民党内で同じように不遇をかこっていたのが安倍晋三だった。そこで、鳩山・小沢シンパの孫崎は、「反米愛国」を軸にして小沢一郎安倍晋三をくっつけたいと考えたのだろう。私はそう推測しているし、それ以外に孫崎が岸信介佐藤栄作を「自主独立派」として絶賛した意図を解釈することはできないと考えている*1

 一方、右翼かつ新自由主義の御輿として同じ安倍晋三を担ぎたいと考えたのが、橋下徹松井一郎だった。彼らは安倍晋三をスカウトしようと動いたが、「終戦記念日敗戦記念日)」の朝日新聞(8/15)1面記事にスッパ抜かれてこの工作も成功しなかった。自民党から引き留めを受けると、本音では自民党で復活したい安倍は小沢一郎(の意を受けた者)や橋下徹には目もくれなかった。

 さらに、自民党内では宏池会谷垣禎一が総裁だったにもかかわらず、極右的な第2次改憲草案を策定するなど、党内の右傾化に呼応した動きを進めた。

 秋の自民党総裁選では、どういう理由かはわからないが谷垣を引きずり下ろして石原伸晃を担ぎたかった古賀誠が何を考えたか「谷垣降ろし」に走った。下記は自民党総裁選直前の2012年9月18日に私が『きまぐれな日々』に書いた記事。引用は省略する。

 

caprice.blog63.fc2.com

 頼みの綱は、森派内で分裂して立候補した(森喜朗の本命だったとされる)町村信孝安倍晋三の票を食って安倍が決選投票に残れない敗北を喫することだったが、こともあろうに総裁選のさなかに町村が脳梗塞で倒れてしまった(その後2015年に死去)。

 まとめると、2012年には下記のできごとがあった。

 こうしたいくつもの要因が重なって、安倍晋三の総理大臣返り咲きを許したといえる。

 このうち、あとの3つは自民党内に関することだから、リベラル・左派の課題としては、最初の1点として挙げた「安倍晋三の綱引き」に、孫崎の著作に表れた「リベラル・左派」の流れがどうかかわったか、それに尽きるだろう。私はそれを「安易な『反米愛国』」の流れに寄りかかった「リベラル・左派」の自滅だったと考える。

 私は何も「親米の態度を取れ」などと言っているのではない。当然ながらアメリカは批判すべきだが、正しい批判をせよ、と言っているのだ。沖縄の米軍基地問題などが特にそうだが、実際にはアメリカの圧力以上に、日本の権力者たちが自主的に米軍を沖縄に居座らせようとしていた。孫崎がかつて「自主独立派」として褒め称えた佐藤栄作などはその代表格だった。その佐藤や安倍晋三の母方の祖父・岸信介を絶賛する孫崎の著書を岡留安則は絶賛した。それは「リベラル・左派」に蔓延していた「安易な『反米愛国』」の陥穽だった。これにも前段階があって、民主党政権ができる少し前に、反自民党政権の流れに「反米右派」たちを多数巻き込んで「『右』も『左』もない」政権交代希求のムーブメントになっていた。それは岡留や彼を含む小沢・鳩山シンパにとどまらず、孫崎は共産党幹部と並んで脱原発のデモで行進したり、『しんぶん赤旗』に登場したりした。つまり、「安易な『反米愛国』」の流れは文字通り「『右』も『左』もない」一大潮流になっていた。しかし、その「反米」も「愛国」も戦前・戦中の日本との連続性を持つものだった。それが、戦前日本が1937年から1945年までの間に経験した「崩壊の時代」を繰り返す原因になった。

 私は以上のように考える。

*1:実際、第2次安倍内閣発足後には、孫崎が岸信介佐藤栄作を褒め称えることはほとんどなくなった。

レコードの「STEREO」表記と新聞ラテ欄の「カラー」表記

sumita-m.hatenadiary.com

 上記リンク先より引用する。

 

(前略)ところで、立体音響装置(ステレオ)がそれほど普及していないかった時代、レコードはモノラル盤とステレオ盤が同時にリリースされていたようだ。このことに気づいたのは、CDになったビートルズの『ラバー・ソウル』を聴いていたとき、全曲が終わったらまた1曲目から流れてきたとき。ボーナス・トラックとしてモノラル・ヴァージョンが収録されていた。また因みに、ボブ・ディランにはモノラル録音の曲を集めたThe Best of the Original Mono RecordingsというCDがある。それはさておき、昔のステレオ・レコードにはステレオ録音であることを示すSTEREOという表示があった。STEREO表示が消えたのは何時頃だったのだろうか。その表示は1970年代まで生き残ったのだろうか。序でに思い出したのは、(私が)小学校低学年の頃までは、TVのカラー番組にはカラー放送であることを示すマークがあったことだ。画面に表示されるだけでなく、新聞のラテ欄でも、カラー番組については、その旨が表示されていた。(私もそうだったけれど)白黒TVの家の子はそれを見て、けっこう惨めな気持ちになったんじゃないか。しかしながら、それも1970年代に入ると、カラー放送が当たり前になって、消えてしまった。

 

 「STEREO」表記を思い出し、その連想からテレビのラテ欄での「カラー」表記を思い出したのは私も同じです。

 思い出せば、家のテレビがカラーになったのは確か1970年で、その翌年に祖母が死んで四畳半の部屋を与えられた時、押し入れに眠っていた白黒テレビも一緒に与えられたのだった。その白黒テレビで見たのが、プロ野球阪神タイガース江夏豊が1971年のオールスター戦で9連続三振をとった試合だったり、野末陳平がレギュラー出演していたクイズ番組だったりした。後者について、以前ネット検索をした時にはわからなかったのだが、今回ついにわかった! 大阪の朝日放送(ABC)が制作してTBS系で放送されていた「タイガーショー 3・3が9イズ」だった。タイガーといっても阪神タイガースとは関係なく、タイガー魔法瓶の提供だった。1970年6月7日から1971年9月26日まで、毎週日曜日の夕方6時半から30分間放送されていた。ってことは「サザエさん」の裏番組か。「サザエさん」も1969年の第1回を見た記憶があるが、2年後には早くも飽きてクイズ番組を見ていたらしい(お茶の間のカラーテレビでついていたのは「サザエさん」だった)。「3・3が9イズ」のあとは、チャンネルを6から4に変えて「アップダウンクイズ」を見ていた。こちらは大阪・毎日放送MBS)制作でNET(現テレビ朝日)系で放送されていた。ネットで在阪局の朝日系と毎日系が現在と逆なのは、いわゆる「腸捻転」であって、これを現在の系列に再編成する時に田中角栄が介入したという例のやつだ。「アップダウンクイズ」の方はお茶の間のカラーテレビでも見てたから、そっちに移動して見たのかもしれない。なおこの白黒テレビはそのうちに調子が悪くなったか何かして捨てられてしまった。しかし、その後高校に進んだあとの時期にも白黒テレビをみていた時期があって、その頃腹が立ってならなかったのが、今も放送されている「パネルクイズ・アタック25」(1975年番組開始)だった。区別しづらいパネルの色があったからだ。この番組もABC朝日放送の制作。これら在阪局制作のクイズ番組は、どれも関東より関西の方が視聴率が高かったはずだ。

 

 ステレオの話に戻ると、モノラル録音と並行してステレオ録音を行う習慣は確かにあったようで、グレン・グールドが弾いたシェーンベルクやベルクら20世紀の作曲家たちの作品を1958年にCBSが録音した時にも、モノラル録音とステレオ録音があった。ところがどういうわけか、長らく正規盤として発売されていたのはモノラル録音の方だけだった。のちに90年代に入ってステレオ録音のバージョンが発売された。

 また、私が持っているジャズのビル・エヴァンス・トリオの "Portrait in Jazz" には、ステレオ録音の「枯葉」のテイク1と、モノラル録音のテイク2とが収められているが、ネット検索をかけたところ、下記のブログ記事が見つかった。

 

recommendedjazz.jazzpianopractice.net

 以下に上記リンク先の記事を引用する。

 

Autumn Leaves(take1)

この演奏はスタンダード曲である枯葉の、ジャズの名演として非常に有名で、ステレオのテイク1とモノラルのテイク2がある。プロデューサーのキープニュースによると、本当はテイク2がOKテイクだったようだが、ステレオの録音に失敗していたのでテイク1がオリジナルアルバムに収められたという事だ。 という訳でテイク1の枯葉は本来ボツだったという事なのだが、どっこい素晴らしい内容である。

 

 どうやらレコードの初出時にはテイク1だけが収録されていたようだ。私がテイク1とテイク2とがともに収録されているCDを買ったのは確か1987年で、CDの発売はその数年前、つまり1982年にCDが初めて発売されてから間もない頃だった。但し、3800円を払った記憶はなく、CDの価格は3000円だったと思う。

 なお、前記グレン・グールドの弾いたバッハのパルティータ第6番も、一部の楽章だけステレオ録音されていたらしく、最初の「トッカータ」と最後の「ジーグ」だけがステレオ録音で、あとの4つか5つの楽章がモノラル録音というCDが現在では正規盤として発売されているらしい。

 

 『Living, Loving, Thinking, Again』の記事の引用に戻る。

 

父親がステレオを買ったのはたしか1971年のことで、当時の最新技術だった4チャンネルで、スピーカーが前に2つ、後に2つあった。しかし、4チャンネルというのは直ぐに廃れてしまった。21世紀になって、2ちゃんねるの米国版として4chanという掲示板サイトができ、2ちゃんねるが5ちゃんねるに進化したというのは全く別の話。

 

 私の父親が「音響装置」を買い換えたのがその1971年で、四畳半の私の部屋にはモノラルの音響装置(「電蓄」?)がお下がりとして与えられたのだった。それで聞いていたのはもっぱら小学館の『小学○年生』の「学習雑誌」(実質的には漫画雑誌)の付録のソノシートだったが、そこで落語家や漫才師がしゃべっていたのは江戸っ子のことばだったので、そうやってソノシート(やテレビやラジオ)で「東京弁」を学んだものだった。地方在住の子どもはどこでも似たようなものだったのでないか。なおクラシック音楽のレコードのお下がりも1枚だけあって、それがドヴォルザークの『新世界交響曲』だった。

 ただ私の父は4チャンネルには手を出さなかった。先見の明があったのか、単に部屋が狭かっただけなのかはわからない。

 あと、昨日書いた記事に頭の悪いネトウヨが何だかわけのわからないコメントを書いているが、そいつは高橋悠治のファンらしい。高橋悠治は左翼として有名で(それは私も知っていた)、坂本龍一ともども毛沢東に心酔していたらしいこと(こちらは知らなかった)を少し前にかけたネット検索で知ったので、ここで引用してそいつに教えてやることにする。あんまり馬鹿を相手にしない方が良いのかもしれないが(笑)。

 

mikiki.tokyo.jp

 以下、上記リンク先に記載された坂本龍一へのインタビューから引用する。

 

――75年に竹田賢一氏らと設立された〈環螺旋体〉というグループについて、坂本さんは〈反武満的な、メディア論的な運動体〉であったと発言されています。そして、当時の現代音楽の状況を、民族性と切り離されたエリート性・階級性の強いものとして批判しています。

「そうねえ。毛沢東主義みたいなことにすごくはまっていて、芸術なんていう自立した美の領域なんてものは許さん、芸術なんていうものは人民に奉仕してこそ存在意義がある、というような非常に過激なことを言っていました。まあ、当時のゴダールなんかもそうで、彼はそれが原因となってトリュフォーとは訣別するんだけれども、当時の過激な若者はそういう考えを持っていたんですよ(笑)。

悠治さんも70年代には毛沢東主義にはまっていたし。悠治さんの自宅に竹田賢一さんと2人で伺って、長くお話ししたこともあったんです。だからそういう思想に対するアンチとして、武満さんという存在が代名詞になっていたんでしょうね。武満さんを深く研究して批判したというのではなく、武満さんといえば、美の小宇宙、自立した美の代名詞のように考えていたんじゃないかな。だから、芸術とか嫌だよね、みたいなノリでそんなことを言っていたんだと思います」

 

 ここで坂本龍一が「悠治さん」と言っているのが高橋悠治だ。確か高橋悠治太田裕美との接点もあったような。太田裕美といえばジョン・ゾーンの「狂った果実」だよなあ(クロノス・カルテットの6枚組CDで聴いた。モーツァルトピアノソナタベートーヴェンの「大フーガ」も引用されていたはず)、などなどと連想していった。ゾーンの「狂った果実」を聴いたまともな方(私自身は「異常な人間」だと自覚しているw)のブログへのリンクを以下に張っておく。

 

ameblo.jp

岡留安則死去

 岡留安則が死んだ。朝日新聞の訃報記事を以下に引用する。

 

https://www.asahi.com/articles/ASM2254KBM22UCLV004.html

 

岡留安則さん死去 「噂の真相」の編集長を務める

2019年2月2日15時39分

 

 月刊誌「噂(うわさ)の真相」の編集長を務めた岡留安則(おかどめ・やすのり)さんが1月31日、右上葉肺がんのため那覇市内の病院で死去した。71歳だった。葬儀は近親者で行った。後日、お別れの会が開かれる予定。

 政界や芸能界のタブーに斬り込んだ「噂の真相」を1979年に創刊し、25年間にわたって編集長を務めた。99年には、当時の東京高検検事長の女性問題を報じ、後の検事長辞任につながった。2004年の休刊後、沖縄県に移住。飲食店を経営しながら、沖縄の米軍基地問題について積極的に発言し続けてきた。16年に脳梗塞(こうそく)を発症。その後、がんが見つかり、治療を続けていた。

 

 以下は、岡留安則さんの死去について、「噂の真相」の元スタッフたちが公表したメッセージの主な内容。

     ◇

 岡留はいつもわたしたちに「体制が変わろうが、政権がどうなろうが、権力は信用できない。常に疑っていかなくては騙(だま)される。だから、知り得た情報をすべて市民に公開していくんだ」と語っていました。

 そのゆるぎない覚悟、そしていかなる困難も生来の明るさとアイデアで乗りこえていくかろやかな姿勢は、わたしたちスタッフから見ても唯一無二であり、早すぎる死に悔しさを感じるばかりです。

 本人も病床で最後まで安倍政権や辺野古新基地建設について憤りを口にしており、県民投票を前に力尽きたことは、さぞかし心残りだったと思います。

 ただ、救いは、岡留がもっとも思い入れのあった沖縄の地で生涯を終えられたことです。生前は「死んだら沖縄の海に散骨してほしい」と語っており、亡くなる直前には、大好きだった「花」を聴いて、涙していたそうです。

 なお、葬儀はご遺族の意向により近親者のみで執り行われましたが、お世話になった皆さま、ご交友のあった皆さまとともに、岡留の思い出を語り合えるような場をあらためてもつことができたら、と希望しております。

朝日新聞デジタルより)

 

 『噂の真相』は創刊号(1979年3月号)から休刊した2004年4月号まで、25年間ほぼ欠かさず立ち読みしていたが、買ったことは一度もない。

 創刊号から、と書いたが、岡留はその前から『マスコミひょうろん』という、『噂の真相』と同紙型の月刊誌の編集長を務めていて、私はそれを高校生だった1978年から立ち読みし始めていたのだった。しかしそれから間もなく発行元のマスコミ評論社で内紛が起き、岡留が独立して『噂の真相』を立ち上げた。それからしばらくは『マスコミ評論』(ある時期から「ひょうろん」の表記が漢字に変わった)と『噂真』とが並立していた。ちょうど現在の極右月刊誌『WiLL』と『月刊Hanada』みたいな関係だ。以下、Wikipedia岡留安則」から「来歴・人物」を引用する。

 

岡留安則 - Wikipedia

来歴・人物

鹿児島県曽於郡末吉町(現在の曽於市)生まれ。宮崎県立都城泉ヶ丘高等学校では野球部に所属。法政大学社会学部入学後、学生運動の闘士となり、大学3年のとき構造改革左派のプロレタリア学生同盟に参加。1970年に卒業後、70年安保を境に学生運動から脱落。同法学部学士入学し、在学中は高田馬場土方アルバイトを経験。1972年卒業。

赤石憲彦率いる東京アドエージに入社し、以後2年半、業界紙の編集に携わる。1975年に退社し、新島史と共同で『マスコミ評論』を創刊、編集長となる。しかし、その後編集方針で新島と対立するようになり、1978年、5人のスタッフともども新島に追放された。

周囲に資金援助を仰ぎ、3000万円を集めて東京新宿に事務所を借り、反権力スキャンダル雑誌を売りとする月刊誌『噂の眞相』を1979年3月に創刊。1980年、『噂の眞相』は皇室ポルノ事件で広告の多くを失い危機に陥るが、その後は広告を頼りにしない方針で立ち直り、休刊まで黒字を維持した。ノーテンキを自称し、個人的な知人・友人であっても容赦なく批判や話題の種にする事で知られた。但し、『噂の眞相』に連載中の人物のみはこの限りではない。また、田中康夫宅八郎の対立では、田中に甘すぎるとの宅側の不満が上がった。

2004年4月号限りで噂の眞相を休刊すると[2]沖縄県移住[1]。翌年1月には「『噂の眞相』25年戦記」(集英社新書)を著し、発行から休刊までの総括を発表した。月刊誌『WiLL』にウェブログの内容を連載。『WiLL』は保守色の強い雑誌であり、岡留の思想とは相容れない誌面だが、花田紀凱編集長との個人的な親交から連載していたが、読者からの反発を受けて2008年2月“紙面の都合で休載”とされそのまま連載終了してしまった。

ちなみに噂の眞相はテレビ番組という形で復活しており、タイトルはそのものズバリ「TVウワサの眞相」。雑誌時代のテイストを残し月1回で放送され、メインキャスターを岡留が務めていた(番組はCSデジタルテレビ局の朝日ニュースターで放送され、2007年3月15日放送分で終了した)。

東京スポーツで「マンデー激論」を月に一度担当。那覇市のスナック『酒処 瓦家別館』の店主を務めていた。

2016年に脳梗塞を発症。その後、がんが見つかり、治療を続けていたが、2019年1月31日、右上葉肺がんのため、那覇市内の病院で死去。71歳没

 

 なんと、岡留は『WiLL』に連載を持っていたのだった。花田紀凱が『WiLL』と同じ紙型の『月刊Hanada』を立ち上げたのも、あるいは『噂真』をパクったのだろうか。

 なお、『マスコミ評論』は1975年創刊で、1976年4月号から1979年4月号まで誌名を『マスコミひょうろん』としていた。1984年5月号をもって廃刊。下記「国立国会図書館サーチにて確認した。

http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000027487-00

 

  正直言って『マスコミ評論』が1984年春まで続いていたとは意外だった。売れ行きは『噂の真相』の圧勝で、『マスコミ評論』はじきに見かけなくなった印象を持っていたからだ。岡留の編集者としての能力はそれだけ図抜けていたのだろう。

 ただ、現在の目から『噂の真相』を振り返ると、一言で言えば「総括が求められている『リベラル』の象徴」ということになろうか。

 似たような存在としてすぐ思い浮かぶのが、久米宏の『ニュースステーション』だ。こちらは1985年10月に番組が始まったが、終了は2004年3月だった。『噂真』は同年4月号で休刊、ということは2004年3月発売だから、両者は同時期に幕を下ろしたことになる。

 ニュースステーションが90年代の「政治改革」を後押ししたのに呼応するかのように、岡留は田中康夫を親交を深めたり、『噂真』休刊後にはすっかり「小沢信者」になるなどしていた。現在では「小沢信者」といえば、ごく一部の狂信的な連中がネットに細々と生き残っているくらいのものだが(但し相変わらず彼らの声はばかでかい)、10年前の「政権交代」当時には岡留のような「リベラル」の大物が小沢一郎鳩山由紀夫に熱狂していたのだった。下記はネット検索で拾った2009年末のメーリングリストからの引用。送信日時「2009/12/24 21:27」となっている。

 

www.freeml.com

(前略)講演の内容は民主党、鳩山兄弟、小沢一郎をべた褒めする内容と、「記者クラブ制度」に対する批判ばっかりで、正直、全然面白くなかった(無論、岡留氏だけでなくゲスト出演者等も同じ内容で話していたが)。
民主党が政権を取ってからは、かっての反体制左翼メディアである週刊金曜日・創・朝日新聞毎日新聞は与党贔屓で、読売新聞・産経新聞週刊ポストサピオみたいな保守系メディアは体制批判を繰り返している。
岡留氏は、もうそろそろ「噂の真相」を復刊させたいらしいが、新しい噂真も政権与党の提灯記事を載せるようなら復刊させる意味はないだろうな。(後略)

 

 『噂真』の休刊が2004年春で、この日記を「はてなダイアリー」で始めたのが2006年夏だから、2年あまりのすれ違いもあってあまり岡留安則や『噂真』に言及する機会は多くなかったが、それでも何度かは言及していた。そのうち岡留と佐高信の共著『100人のバカ」 (七つ森書館,2007)から2007年の東京都知事選での田中康夫の動きに言及したくだりを孫引きしておく。

 

kojitaken.hatenablog.com

佐高 田中康夫説はないの?
岡留 以前はあったんですけどね。慎太郎が再出馬しなければ田中康夫の選択肢は十分にあったんですよ。でも慎太郎が出るって言っちゃったから、田中康夫も慎太郎に勝てる自信はイマイチないんじゃないですか。まだ小沢一郎田中康夫が蜜月の頃だったけど、長野県知事もいいけど東京都知事のほうがいいんじゃないかって話をしたら、色気は示してました。その頃小沢一郎田中康夫を党首にかつぐ勢いもあった時期だったから、うまくいってたんですけどね。その後は田中康夫民主党を見限った感じでしゃべってました。田中康夫が選挙応援に行くと、民主党は交通費も出さないというようなことまで言ってました。礼を尽くさないってことなんでしょう。
岡留安則佐高信編著 「100人のバカ」 (七つ森書館) 62-63頁)

   今となってはややわかりにくいところがあると思うので注釈をつけておくと、田中康夫長野県知事選に立候補して初当選したのは2000年だから、「小沢一郎田中康夫を党首に担ぐ勢いがあった」というのは旧民主党ではなく旧自由党のことだ。民主党浅野史郎を担いで負けた東京都知事選があった2007年当時、民主党代表は小沢一郎だったが、この時期には小沢と田中康夫との関係は必ずしもしっくりいってはいなかったようだ。

 

 また、『噂真』に大槻義彦の連載があったことも、自分が書いた下記記事で思い出した。

 

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(前略)大槻義彦については、昔から(80年代頃から?)タレント教授として知られていたが、私はこの男をずっと嫌っていた。テレビでは「火の玉教授」として宣伝されていたが、何でもかんでもプラズマが原因だと決めつけていて、断定できるとはとても思えない事柄を断定調で語るのは学者にふさわしい態度と言えるのだろうか、テレビ局と視聴者に対する媚態ではないかと感じていたのだ。

案の定、90年代半ば頃から出版された「と学会」の「トンデモ本」で、大槻は「何でもかんでもプラズマのせいにするトンデモ学者」と判定されていた。ところが月刊誌『噂の真相』はそんな大槻に「オカルト批判」の連載を持たせていて、私は「大槻自身がトンデモなのに、こんな男に『トンデモ』批判をさせるとはなにごとか」と憤っていたものだ。(後略)

 

  ところで、『噂真』のウリはなんといっても「一行情報 - 未確認ネタや掲載に間に合わなかったネタを各ページ左側32文字で掲載」だった。これがあったから、25年立ち読みを続けたんだったよなあ、と思い出したものだ。そのスタイルをこの日記のエントリのタイトルでパクってお叱りを受けたこともあった。

 

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(前略)(私は、辛坊らの航海が24時間テレビの企画であるとの噂の裏がとれなかったので、かつての『噂の真相』の「一行情報 - 未確認ネタや掲載に間に合わなかったネタを各ページ左側32文字で掲載」のスタイルをパクって、「救助された辛坊治郎の『冒険』は日テレ『24時間テレビ』の企画だったとの噂」というタイトル(字あまりだが)の記事にした。そのおかげで、

この件で2chソースで適当なことを書いているのは本当に残念です。
これでは上杉隆と同レベルです。

というお叱りを頂戴してしまったわけだが(笑)。(後略)

 

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 そういえば『噂真』のレギュラー執筆陣には本多勝一筒井康隆が名を連ねていた。筒井康隆が先年ヘイトスピーチで批判されたことは記憶に新しい。また、ある時期に岡留安則本多勝一と仲違いしたが、その際にはホンカツ(本多)を含む朝日新聞幹部記者の特権階級ぶりも浮き彫りになった。しかし、そんなホンカツも『週刊金曜日』で小沢一郎と対談して「意気投合」し、「小沢信者」になってしまったのだった。論敵(本多勝一岡留安則)同士がともに「小沢信者」に回収されてしまったところに、今も克服されていない「リベラル」の大きな課題があると私は思う。
 

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http://www.bk1.jp/review/0000435488 に掲載されている「良泉」という人の書評より。

少し古いが,週刊金曜日2005年1月14日号・1月21日号誌上に,“あの”本多勝一同誌編集委員による小沢一郎インタビュー記事が載っている。記事から感じられる印象では,なんと両氏は意気投合。本多勝一氏「いま現実に政権を自公から奪える一番手が民主党だと思います。(略)党首は小沢さんが一番適任ではないかと思いました。」さらに,インタビュー後記でも本多勝一氏は,「かなり基本的な認識で小沢氏と共通するとは意外だった。」「論理の一貫性でも明晰な頭脳が感じられ,(略)」と絶賛に近い。
しかし,やはり,その言葉の豪快さやわかりやすさだけにごまかされてはいけない。小沢一郎を評価するには彼のウェブサイトに示される「日本国憲法改正試案」や「日本一新11基本法案」をじっくり読み解く必要がある。そしてかつて「壊し屋」と言われた政治手法も。 

  

 岡留安則本多勝一らを含む「リベラル」の高揚が頂点に達したのが2009年の「政権交代」だった。成立した民主党政権は3年あまりで瓦解したが、「リベラル・左派」の迷妄は今もって全く解決されておらず、それどころか2015年以降には、日本共産党復権に執念を燃やす小沢一郎と手を組む事態になり今に至っている。

  ともに小沢一郎に魅入られた本多勝一日本共産党の共通点として、「反米愛国」が挙げられる。また、反共ないし非共産系「リベラル」の問題の根っこには「相対主義」や「脱構築主義」の問題もあると思われるが、そういった多くの問題を抱えて未だに安倍政権を倒すきっかけさえ見出せない、あるいはいつか必ず来るであろう安倍政権瓦解後のビジョンをリベラルが何も示せないでいる閉塞感に満ちた時代に、岡留安則はその生涯を閉じた。

ステレオとステレオタイプ

 先週見かけたツイート。

 

 

 うーん、ステレオって立体感のある音響を作り出す技術のことで、モノラルと対比されるものじゃないのかなあ、でも待てよ、ステレオってモノラルの対義語なんだろうか、それもまたしっくりこないよなあ、などと思ったのだった。

 すると翌日、上記ツイートに下記の反応があった。

 

 

 ステレオタイプは「偏見」というより「型にはまった考え方」という方が私にはしっくりくるが、まあそれはTwitterの字数制限のためかもしれない。それよりも、立体(音声)のステレオと「ステレオタイプ」のステレオの「語源に繋がりはない」というくだりに反応してネット検索をかけてしまった。

 その結果、先週お別れしたばかりの懐かしの「はてなダイアリー」の記事を見つけたのだった。

 

d.hatena.ne.jp

 現在生き残っている「はてなダイアリー」も、「はてな」の方で3月から順次「はてなブログ」に変換していくとの話だから、かつての『kojitakenの日記』と同じ配色のブログデザインに懐かしんでいられるのも今のうちなんだろうが、それはともかく上記記事から抜粋して以下に引用する。

 

英語だと、ステレオタイプstereotype(ステロタイプ)という一面的なものを指す言葉と、ステレオ音楽stereo soundという(モノラルと比べて)多面的なものを指す言葉が、なぜか同じ綴りを使っている。これはなぜか。

stereoの語源についてOEDで調べてみた。(略)ギリシャ語にはstereosみたいなスペルの単語がある。それの意味・語源はsolidと同じで(solidはラテン語経由)、英語のstereoは、近代になってからこのstereosを取り入れたもの。

ちなみに、solidの意味は「固い」と「立体の」なのだが、そのココロは「水と対比したときの氷」っぽい。氷は液体じゃなくて固体(→立体)で、それなりに固い。だから、solidifyは「凝固させる」って意味になる。ついでに、かつてのsolidは「固い」よりも「立体」のほうが第一義だったっぽいです。

stereoが英語に入ってきたのは、だいたい2つのルート。一つは、印刷技術のステロ版。もう一つは、ステレオスコープ(立体鏡)付近。ステレオがまったく意味の違う二側面を持っているのは、流入ルートが二つあるかららしい。

ステロ版および金太郎飴な世界把握はステロ版由来であり、他の意味・用法(立体系)は立体鏡あたりが起源っぽい。で、ステレオを「固い」という意味で使う用法は、現代英語には存在しないはず。

それでは、歴史を追っていこう。

ステロ版の実用化が、近代英語におけるstereoの初登場だった。1798年の雑誌に以下の記述が見られる。

「かの有名なフランスの印刷屋ディドー(Didot)は、ヘルマンというドイツ人とともに、革新的な印刷技術を開発したと発表。彼らはその技術をステロ版(stereotype)と名付けた。」

ここでいうステロ版というのは金属を使った版で、活字組版や木版などの原版から紙型を作り、そこに活字合金(鉛+アンチモン+スズ)を流し込んで作る。

(略)1823年の本から以下のような用例を発見。

"[They] are printed with what are called stereotypes,the types in each page being soldered together into a solid mass."

「それらはステロ版と呼ばれる印刷法で作られている。ステロ版では、各ページの活字ははんだづけされ、一つの塊になる。」

どうやら活字どうしが固まってるから、ステレオタイプらしいです。これだと、その後の「固定観念」への意味拡張にぴったり合うね。

***

ここまでの議論をいったん要約しておこう。「一面的なステレオタイプと立体的なステレオ音楽はなぜ同じSTEREOって言葉を使ってるの?」という疑問から出発して、どうやらこの言葉は二つの語源から英語に入ってきていて、その二つの違いがそのまま残っているから、という答えにたどりついた。

で、ステロ版の歴史について色々と見て、「ステロタイプ」が「版に押したように同じ見方をする」みたいな意味に使われるのは、それが分解可能な活字ではなく、一つの鉛の塊だからのようだ、と説明したわけです。

ステロ版を開発(正確には実用化)した(略)ディドー社のステロ版技術は急速に広まり、「版に押したように同じことを言う」というニュアンスを媒介にして、1850年頃にはstereotypeが「使い古された表現」の意味で使われ始め、1920年頃になると「固定観念」一般をも意味するようになりました。

ステレオタイプは親から子へと世代を越えて伝達されるものであるが、この伝達はきわめて持続的かつ権威的に行なわれることが多いため、それは一見するとほとんど生物学的な事実であるかのように見える」

この文章を書いたのはLippmanという社会学者(略)。

一方、ステレオという語の系譜はもう一つあるわけです。物理学者Wheatstone(1802-1875)が考案した立体鏡(stereoscope)がそれ。まあ、彼自身は理屈を示しただけなんだけど。

「このメカの中には立体(solid figures)が表現されるのだから、私はこれを立体鏡(stereoscope)と名付けようと思う」

立体鏡というのは望遠鏡みたいな形をしたメカで、右目と左目で微妙に違う絵・写真を見せることによって、立体を見ることを可能にするものらしい。昔よく子供用の雑誌に付いていた赤青メガネの親玉みたいなものか。Wheatstoneの頃は写真がなかったが、写真技術が発達すると立体写真も普及し、「ステレオ・スコープ」という名称で立体写真を見るための道具が市場に出回るようになった(20世紀初頭)。写真そのものが魔術的な魅力を持っていた時代の産物。今日ではアンティークとして重宝されてるようです。

で、こっちからstereoという語は「立体」ということになり、ステレオ音楽(1920s~)やステレオ化学へとつながっていくわけです。ステレオ化学っていうのは分子の3次元的構成を研究する化学なんだって。

とまあ、そういうわけで、ステレオという語は、もともとはsolidを意味する一つのギリシャ語だったが、英語には「stereotype」と「stereo-」という二つの系譜で入ってきたので、両者の間にはいまだ絶望的な断絶がある、ということのようだ。(後略)

 

 なるほどねえ。もとは一つの言葉だったのが「固い」と「立体」に分岐して、前者から「ステレオタイプ」、後者から音響装置の「ステレオ」が生まれたってことか。

 私が昔よく聴いていたクラシック音楽の録音は、たとえばグレン・グールドのピアノ演奏なんかの録音年を覚えているのだが、だいたい1958年頃からステレオ録音が主になった。それまではモノラル録音であって、グールドの録音でいえばバッハの「ゴルトベルク変奏曲」やパルティータ第5番、第6番、それにベートーヴェン晩年の第30番から第32番までのソナタがモノラル録音だった。ことに私が1986年に買ったパルティータ全6曲の2枚組のCDでは、ステレオ録音の第4番が終わった後に鳴るモノラル録音の第5番の音が平板で貧弱だったのにいつもがっくりきて、予定されていたというパルティータ全曲の再録音を待たずにグールドが死んでしまった(1982年)ことは何たる痛恨事かと思ったものだ*1。だから、音響装置を「ステレオ」と呼ぶようになったのは、早くともこの1958年頃からではないかと思うのだ。

 その「モノラル」についてもネットで調べてみた。

 

www.weblio.jp

 以下、上記リンク先より引用する。

 

モノーラル(モノラル) 【monaural】

1.片方の耳で音を聴くこと。これが本来の意味であり、片方の耳のイヤフォン聴くことなどが該当する。バイノーラル対語
2.1個または複数スピーカーから、単一ソース再生すること。ステレオ(フォニック)等において、複数チャンネルに同じソース録音・再生することも該当する。本来はモノフォニック表現すべきであるが、混用されている。

【参】バイノーラルモノフォニックステレオフォニック
 
(『ビデオ用語集』より)

 

 モノーラル(モノラル)の対義語はバイノーラルだし、モノーラルは本来「モノフォニック」と表記されるべきで、それなら「ステレオフォニック」と対比できるって理解で良いのだろうか。

 いずれにせよ、「ステレオタイプ」(私が最初日本語で接した時の表記は「ステロタイプ」だった)と「ステレオ」って全然違うじゃん、むしろ反対っぽい意味じゃないかという長年の疑問がようやく解けた。

 こういう時にはネットのありがたみを感じる。

*1:ことにホ短調のパルティータ第6番は、グールド自らがこの曲を得意としていたと語っていたのが心底納得できるほどの「神演奏」なのだが、モノラル録音であるばかりか第1曲のトッカータの終わりの方にノイズが入っているのがなんとも聞き苦しかった。だから「ゴルトベルク変奏曲」のように再録音がされていれば、と惜しまれてならなかった。

広河隆一の件に見る「個人崇拝の行き着く先」と指導者の暴走を縛る仕組みの必要性

 河添誠氏のツイートより。

 

 広河隆一の一件は、どんなに高邁な理念を掲げる者でも自身の弱さを抱えているのが普通で、いかにそれに心酔する者であっても「権力者の暴走」(雑誌編集長は編集部員に対する権力者以外の何者でもない)を縛る仕組みが必要であることを示している。さしあたっては労働組合がそれに当たる。

 崇拝する指導者への隷従、あるいは政党の執行部への隷従などがどんな結果をもたらすか。広河の一件はその典型的な悪例だと思う。

 立憲主義は保守思想が生み出した最良の果実だと思うが*1、左翼政党の党内にも執行部の暴走を縛る仕組みが必要だろう。議会では立憲主義、党内では民主集中制などというのは、執行部にとってのみ都合の良い二重構造だ。

 一般のリベラル・左派たちも、個人崇拝の悪弊をいい加減に思い知るべきだ。

*1:但し自民党は国会議員たちが平然と「立憲主義とは耳慣れない言葉だ」と言い放つ政党だし、立憲民主党では党の名前に反して枝野幸男への個人崇拝がまかり通っていることを指摘しておかなければならない。

統一会派やら統一名簿やらで小沢一派と「信者」とが馬鹿騒ぎ(呆)

 小沢一郎と連合の神津里季生が参院選で野党が統一名簿を作れ、などと言ったらしく、小沢側・反小沢側双方のTwitter界隈はこの話題でかまびすしい。

 小沢と神津の会談は29日に行われ、30日に朝日が報じている。

 

https://www.asahi.com/articles/ASM1Y56RLM1YUTFK00Y.html

 

小沢氏と連合会長が会談 「参院選での野党共闘を確認」

寺本大蔵、河合達郎 

 

 自由党小沢一郎代表と連合の神津里季生(りきお)会長が29日夜、東京都内の日本料理店で約2時間会談した。自由は、連合が支援する国民民主党と将来的な合流を視野に衆参両院で統一会派を結成したばかり。神津氏は会談後、朝日新聞の取材に対し、「参院選に向けて統一名簿など野党が力を合わせて闘うことを改めて確認した」と述べた。

 国民の玉木雄一郎代表と小沢氏は政策協議を始めることで合意している。神津氏は「統一会派や具体的な政策の話はしていない」としたが、とりわけ原発政策では、電力総連の組織内候補を擁する国民と「脱原発」を掲げる自由とで隔たりがあることに国民内では懸念がくすぶっている。玉木氏は統一会派の結成後、電機連合の会合に出席し、「政策は大丈夫かと心配されると思うが、国民民主の政策理念を軸に野党を大きな固まりにしていく」と理解を求めた。

 連合は旧民進党最大の支援組織。参院選比例区では自治労など五つの産別組織が立憲民主党から、電力総連など5産別が国民からそれぞれ候補者を擁立し、支援態勢が「股裂き状態」に陥っている。(寺本大蔵、河合達郎)

朝日新聞デジタルより)

 

 この記事で朝日は「統一名簿など野党が力を合わせて闘う」と書いている。「統一会派」と「統一名簿」とは言葉が似ているので紛らわしいが、「統一名簿」は、単なる枕詞みたいな使われ方をしているに過ぎない。ところが、 後追いした毎日の短い記事では「統一名簿」にのみ焦点が当てられている。

 

https://mainichi.jp/senkyo/articles/20190130/k00/00m/010/153000c

 

小沢氏と連合会長が会談 「比例代表の統一名簿」で一致

毎日新聞

 

 自由党小沢一郎共同代表と連合の神津里季生会長は29日夜、東京都内で会談し、夏の参院選比例代表の統一名簿を作る必要があるとの認識で一致した。神津氏は30日、「野党が力を合わせる姿を明示的に示すのが統一名簿だ」と記者団に語った。一方、立憲民主党枝野幸男代表は同日の記者会見で「トータルの得票が減るので統一名簿はあり得ない」と協力を否定した。

毎日新聞 2019年1月30日 18時40分)

 

 これは真面目に論じるに値しない問題であって、小沢と神津が立憲民主党(立民)その他の野党支持者の票に寄生したいだけの話だ。こんなのを「『比例代表の統一名簿』で一致」などと報じる毎日も全くセンスがない。

 統一名簿は、前回までの社民党自由党のように、比例で1議席獲れるかどうかという政党同士が組むなら、「せめてどちらかの政党の議席を確保する」意味もそれなりにあるが、一定の議席を見込める政党同士になると、足し算しても1議席増えるかどうかだし、現在の国民民主党(民民)のように、比例票がわずかしか見込めない一方、電力労連を含む連合の組織票を持つ候補を抱える政党にとってはメリットしかない。自由党も、単独で戦えばおそらく比例では1議席も獲れないだろうが、統一名簿を作ることであわよくば議席確保を、との狙いがある。もちろん立民にはメリットは何もないし、野党全体の議席が全然増えないことは、確か以前に毎日新聞が試算していた。実際、理屈から言ってもよほどの小政党の寄り集まりでもない限り、毎日の試算の通りになることは誰が考えてもわかる。

 要するにはなから無理筋で、騒ぐこと自体が馬鹿げている話なのだが、そんなのに踊り狂っているのが「小沢信者」であり、一部の政治家なのだ。

 ここで念頭に置いているのは山本太郎だ。今回の野合劇で一方的に民民側に立って騒いでいる山本の醜態には「馬脚を現した」という以外の感想はない。

 自由党小沢一郎共同代表と連合の神津里季生会長は29日夜、東京都内で会談し、夏の参院選比例代表の統一名簿を作る必要があるとの認識で一致した。神津氏は30日、「野党が力を合わせる姿を明示的に示すのが統一名簿だ」と記者団に語った。一方、立憲民主党枝野幸男代表は同日の記者会見で「トータルの得票が減るので統一名簿はあり得ない」と協力を否定した。
 自由党小沢一郎共同代表と連合の神津里季生会長は29日夜、東京都内で会談し、夏の参院選比例代表の統一名簿を作る必要があるとの認識で一致した。神津氏は30日、「野党が力を合わせる姿を明示的に示すのが統一名簿だ」と記者団に語った。一方、立憲民主党枝野幸男代表は同日の記者会見で「トータルの得票が減るので統一名簿はあり得ない」と協力を否定した。
 自由党小沢一郎共同代表と連合の神津里季生会長は29日夜、東京都内で会談し、夏の参院選比例代表の統一名簿を作る必要があるとの認識で一致した。神津氏は30日、「野党が力を合わせる姿を明示的に示すのが統一名簿だ」と記者団に語った。一方、立憲民主党枝野幸男代表は同日の記者会見で「トータルの得票が減るので統一名簿はあり得ない」と協力を否定した。
 自由党小沢一郎共同代表と連合の神津里季生会長は29日夜、東京都内で会談し、夏の参院選比例代表の統一名簿を作る必要があるとの認識で一致した。神津氏は30日、「野党が力を合わせる姿を明示的に示すのが統一名簿だ」と記者団に語った。一方、立憲民主党枝野幸男代表は同日の記者会見で「トータルの得票が減るので統一名簿はあり得ない」と協力を否定した。