宮崎信行という元日経記者は、2009年の政権交代前後に政治ブログで絶大な人気を誇っていた。当時の民主党支持で保守系の人だ。私はあまり氏のブログを好まなかったがブログは地道に続けておられるようで、立民代表・枝野幸男の退任会見をまとめたエントリを上げた。
上記リンクの「違う選択肢はなかった」「野党共闘という言葉は一度も使っていない」という煽り文句は結構強烈だ。いずれも枝野の言葉からの引用だが、前者では立民をより新自由主義的な方向に寄せたいネオリベ勢に喧嘩を売り、後者では自らは野党の選挙協力をむしろ邪魔しているのに「野党共闘」の旗印を勝手に掲げて暴走する、いわゆる「ヤマシン」*1に喧嘩を売っている。ブログ主の宮崎氏はどうやら前者の、ネオリベに親和性がかなり高い人とみるべきだろう。
私が注目したのは、野党の選挙協力に関する枝野の見解だ。以下、宮崎氏による要約を引用する。
枝野さんは、小選挙区での野党調整が、与党幹部から「自公政権と立憲共産党の政権選択選挙だ」との対立軸を提示し、比例票では旧立憲と新立憲で全く伸びていない結果となり、小選挙区では議席を増やしながらも、100を超えた接戦区のほとんどを落とし、比例も「旧立憲」から伸びず、総議席を減らしました。
2015年夏の平和安全法制・2016年夏の参院選以降「枝野幸男幹事長・岡田克也代表」らが一貫して「野党調整」「一本化」という言葉を使い、「野党共闘」という言葉を使わないことを組織で決め、今回の衆院選で公認候補を含めて統一されていたのに、マスコミで「野党共闘」という表現が使われたことについて。枝野さんは「ご承知の通り、一貫して私は野党連携という言葉を使ってまいりました。この言葉の使い方にとどまらず、他の野党との関係については、かなり緻密に言葉を使い緻密に言葉を使い進めてきたにも拘わらず、有権者のみなさんにきちっと伝わらなかった客観的事実はある」と話しました。
また、2015年以降、「野党調整」については、国政選挙を経ながらも、党内の民主主義的手続きにさらされなかったのではないかとの指摘について枝野さんは「なってません。なぜならば論点ではないですから。できるだけ小選挙区制度では一騎打ちの構図をつくるのがのぞましい。但し政党ごとに違いがありますから、相手がある中で、どこまでできるのか。立憲民主党の支持者の中で、潜在的に共産党に否定的な考え方を持つ人との間で、私たちが許容できる限界ギリギリかどうかは路線の右か左かというよりも、むしろ政治の技術の問題だ」と述べました。今月の代表選について「党内は私の認識とほぼ一致している」とし、「どう正確に伝えるか大事だよねという問題だ」と述べました。
私が、京都府連に属する幹部が少しニュアンスが違う発信があったと指摘したところ、枝野さんは「それは地域によって、他の政党との連携についても、国民民主党さんと100%連携しているところもある。京都で共産党と連携できないというのは、お互いが共有済みだと思います」としました。
(ブログ『【ニュースサイト】宮崎信行の国会傍聴記』 2021年11月12日)
出典:https://blog.goo.ne.jp/kokkai-blog/e/57dfa9a89dcb1b7d8376c44ab016974e
ブログ主の立ち位置は、引用文の最初の方に「与党幹部から「自公政権と立憲共産党の政権選択選挙だ」との対立軸を提示し」と書いたり、同引用部分の末尾に「京都府連に属する幹部が少しニュアンスが違う発信があったと指摘した」と書いたことから明白だろう。つまり立民と共産との選挙協力にはかなりネガティブだと考えられる。なお、元希望の党・泉健太の選挙区が京都3区であることは要注意だ。私見だが、泉は立民支持層の間で一番人気だと日経が報じた馬淵澄夫と並んで、今回次期代表候補に挙げられている人たちの中で、もっとも代表にしてはならない人物だと思う。泉や馬淵が代表になるようなら、立民は分裂の危機に晒される可能性が非常に高い。
枝野が「立憲民主党の支持者の中で、潜在的に共産党に否定的な考え方を持つ人との間で、私たちが許容できる限界ギリギリかどうかは路線の右か左かというよりも、むしろ政治の技術の問題だ」と述べたことは、枝野のリアリストぶりをよく示すものだ。宮崎氏のブログ記事からもう少し枝野の発言からの直接的な引用をすると、枝野は「日本の選挙制度が衆議院が、小選挙区制度が軸であることは、二つの政治勢力がとりあう 選挙制度では必然的に求められているというのがこの問題に対する基本的な認識だ」と言っている。つまり、衆院選が小選挙区(比例代表並立)制をとっている以上、これ以外の選挙戦術はあり得ないという意味だ。
ただ、枝野は現状認識にはすぐれているが、その問題点を解決する動きを起こすことにかけてはかなり腰が重い。このあたりが、ベクトルの向きはおそらく逆であって結果的には有害無益だったが(それどころか猛毒だった)、小選挙区制を導入するために本当に政権与党からおん出てまで大きく動いた小沢一郎とは大きく異なる。Twitterを見ていると、反オザシン系の人の中にも小選挙区制を無条件に受け入れているようにしか見えない人たちや、基本的には小選挙区制に否定的なのに選挙制度の再改変は無理だと決めてかかっている人たちが多い。政治はいかに既成事実を作るかで勝負が決まる。ことに日本のような風土(決して「民族性」などではない!)の社会ではそうだ。いや、前世紀前半のドイツをはじめとして世界のどこでもそうなのかもしれないが。
現在の日本では政党政治に関しては無党派層が多いが、大きく主義主張を分ければ、復古主義的な保守派(私の本来の用語では政治思想右翼。安倍晋三に代表される)、新自由主義勢力(維新や河野太郎、菅義偉、前原誠司らに代表される)、リベラル・左派の3つに分けられる。無党派層の中にもそのいずれかに属する人が多い。現実の政治では前二者が組むことが多いが、有権者の間ではむしろ新自由主義勢力とリベラル・左派との間で票が動くことが多い。前回の2017年衆院選では小池百合子の「排除宣言」という新自由主義勢力の大ポカのおかげで旧立民への票が増えて旧立民はやや実力不相応の多くの議席を得た。党勢はどう見ても「旧立民>>旧民民(旧希望)」だったから立民は膨張策をとったが、これが失敗だった。私は2017年末に枝野が蓮舫と山尾(現菅野)志桜里を入党させた時点からこれを批判していたが、小選挙区制で勝つには「大きな塊」にするしかないと小沢一郎が枝野に囁いたかどうかは知らないけれども、無理にくっつけた「大きな塊」はあっけなく崩壊する。それを四半世紀前に示したのが1996年から翌年にかけての衆院選での民進党敗北から解党へと至る流れだ。そしてその際大の責任者は小沢一郎だった。
今回、2021年の衆院選では特にどの政党にも風は吹かなかった。菅義偉が総理大臣だった時には自民党にかなりの逆風が吹いていたが、安倍晋三が危険を察知して首相のクビを菅から岸田にすげ替えたのが成功した形になった。リベラル・左派は風がなければ3分の1程度の支持しかない。この3分の1は、政権を獲るには少なすぎるが、「保守二大政党制」を目指す小沢や小池百合子や前原誠司のような連中の野望を阻止するには十分な勢力だ。
しかし小選挙区制という選挙制度の特異な性質のために、最近の選挙の総括に「民意の絶妙なバランス感覚」という言葉は全く聞かれなくなった。ちょっと比率が小さいだけで、立民は、宮崎信行がおそらく皮肉を込めて書いたであろう「小選挙区では議席を増やしながらも、100を超えた接戦区のほとんどを落と」す結果になった。
さすがにこの結果を受けて「立民は維新と提携すべきだ」などと言い始めたら「希望の党」騒動から何も学んでいないことになる。それではあまりにも愚かすぎる。
この記事で私が言いたいのは、現実の国会議員の中でももしかしたら有数のリアリストであるかもしれない枝野幸男が「この選挙制度では野党の選挙協力という戦い方しかない」と言っていることだ。
野党第一党の党首だった人がそこまで言っているのだ。そろそろ「選挙制度」の議論が本格的に活発化してしかるべきだろう。
しかるにこういう議論に対しては自称「リアリスト」たちが「選挙制度の改変なんか現実的じゃない」とすぐに言う。現実的でないのはどっちの方なのかと反問したくもなる。