kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

1992年のシーズンオフの査定、古田>>広沢は当然だろ

私はヤクルトファンだが、広澤克実(以下「広沢」と表記)という選手はヤクルト時代からあまり好きではなかった。


高年俸いつまで…プロ野球、危うい"楽観体質" :日本経済新聞

高年俸いつまで…プロ野球、危うい“楽観体質”


 何億円という数字が飛び交う契約更改シーズン。景気のいいのは結構だが、一般の企業は長く続いた円高、株安などの影響で苦しんでいるところも多い。プロ野球だけ、こんな大盤振る舞いが続くのだろうか。プロ野球人気はそれほど盤石だっただろうか? 球団経営は右肩下がりなのに大丈夫かと不安が頭をもたげてくる。


■古き良き時代の年俸闘争

 現役時代、私は年俸闘争をほとんどしたことがなかった。最初に入団したヤクルトは家族的な経営で有名で、契約更改で保留する選手はほとんどいなかった。

 そんな私が契約交渉を粘った年があった。1992年のオフだ。

 91年に打点王となった私はずっと球団一の年俸をもらっていた。そして92年は野村監督の下、リーグ優勝を果たした年だ。チームリーダーで選手会長を務め、何年も弱いヤクルトをけん引してきたという自負があった。また「選手の評価は年俸」という考えもあり、「球団ナンバーワン」については譲れない気持ちが強かった。ところが、私の年俸を上回ろうという選手が現れた。古田敦也だ。

 91年に首位打者のタイトルに輝くと、それから連続3割をマーク。その古田が推定1億2000万円で更改するという新聞報道を見た私は心中穏やかではなかった。当時の1億2000万円は球団史上最高金額であり、数年前に引退した若松勉さんの年俸を超えていた。契約交渉の時、席に座った私の前に提示された金額を恐る恐る見ると1億2000万円には遠く及ばない金額だった。逆転されるのか……。

 あの頃は、あくまで推定の範囲であり、新聞報道も今ほど当たっていなかったので、私は、あたかも 古田の年俸は知ってるよ、とばかりに「今の金額だと古田より安いですね」と交渉の席にいた球団代表と査定担当部長に詰め寄ると、2人とも黙り込んでしまった。

 やっぱり古田の方が上なんだ……。

 私はプロ入りして初めて球団査定に抵抗した。「私は弱小球団のころから支えています。球団の顔は古田ですか? 古田より多くしてもらえませんか?」と声を荒らげると、査定担当部長が、「誰かと比較して年俸を決めるわけではない」と反論してきた。

 球団代表の顔を見ると、査定担当部長の言う通りだ、みたいな顔をしていた。

 この劣勢を挽回する材料はそれほどなかったが、絶対に上がるまで判は押さないと決め、徹底抗戦した。

 1時間近く押し問答があり、私が「それでは今回は保留いたします」と言うと「何回来ても球団からの評価は変わらないし、金額も変わらない」と査定担当部長が言った。重ねて「君の将来のことも考えて行動を取るように」と脅迫じみたことを言うものだから一気に血液が脳に行き、身体が小さく震えた。

 興奮を抑え、その場を立ち去ろうとした時、偶然、球団社長が入って来た。「長い時間かかってるが、何してるんだ」と問いかけられた瞬間、私は攻勢に出た。「情」に訴えたのだ。

 「わかった、わかった、じゃあアップしてやるよ。その代わり、こんなことは今年だけだぞ」

 社長が神様に見えた。代表と査定担当部長の顔を見ると苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。まるで、起死回生のホームランを打った感覚だった。もっとも、最初の提示よりアップしたとはいえ、まだ古田と並んだだけ。もののついでに「同額ではなく、10万円でも20万円でも古田より上にして下さい」とダメもとで言ってみると、社長が「わかった」と言うものだから、今度は代表と査定担当部長がともに拒否反応を起こした。「それはダメです」

 ちなみにこの社長は相馬和夫という人で「黄金の左腕」を持つ、といわれた。荒木大輔、高野光、池山隆寛伊東昭光長嶋一茂伊藤智仁など、ドラフトで指名が重複した選手を左腕でことごとく引き当てた人だ。もちろん、広澤もあの左腕で引き当てていただいた。

 何より、89年のオフ、本社から反対されていた野村克也さんの監督就任を自分の「クビ」をかけて押し通した。つまり、相馬社長なしでは90年代のヤクルトの黄金期は語れない。とっつきにくい人だったが、芯の強い人間味のある人だった。

 部長の「それはダメです」の言葉に社長が「広澤は球団の功労者だ」と一喝してくれた。感動のあまり言葉を失った。相馬社長は2005年に他界されてしまったが、伝説の社長であり、今でも、感謝している。ヤクルトを常勝チームにした陰の功労者だ。最高の球団社長だった(93年のヤクルトの日本一を見届けて勇退した)。

 あの頃は、一枚の紙の契約書にも血が通っていた。人間味があった。今の契約交渉を見るとビジネスという感じが強い。信頼関係とか人情とか昔の野球界にあった人間味が薄い。

■激変する経営環境、阪神にも異変

 私はヤクルト、巨人、阪神と3球団を経験した。どこの球団も本当に緻密に査定をしていて、調停となりコミッショナーの裁定になっても絶対負けないだけの材料をもって更改に臨んでいる。そして、球団側が2人、3人と複数で交渉の席につくのに対し、選手は自分1人。選手側が圧倒的に不利なわけだが、たまには球団も言うことを聞いてくれた。ひと昔前の査定は「どんぶり勘定」と批判されたものだが、このいかにも日本的なやり方で、丸く収まっていたのだろう。考えてみれば牧歌的な時代だった。

 時代は変わった。私と球団の攻防は球団経営にまだ余裕があったころのこと。「球団はもうかっているんでしょう。税金を払うくらいなら、年俸として選手に還元して下さい」という言い方ができた。

 今黒字なのは12球団中2、3球団くらいだろうか。野球界のなかの噂だから、アテにはならないかもしれないが、球団を売却したがっているところもあると耳にする。

 選手会の発表によると2012年の平均年俸は3816万円。5年ぶりに下がったというが、ダルビッシュ有ら高額選手のメジャー移籍の影響もあるといい、野球界はまだまだ恵まれている。1億円プレーヤーがまだ78人もいるのだ。

 球団経営の実態と言えば地上波の中継がほとんどなくなり、特にセ・リーグにはその穴埋めができていない球団が多い。選手は気づいていないかもしれないが、野球界は危機的状況なのだ。選手の年俸を全球団で一律何パーセントカット、というような荒療治が必要なくらい球界全体でみれば苦しい。現在の高額な年俸水準が、近いうちに選手自身の首を絞めることになる。

 比較的余裕があったとみられる球団にも変化が出始めた。中日は観客動員アップを目指し、OBを中心とした首脳陣に切り替えた。監督、コーチ陣の人件費も大幅に下がった。

 これまで盤石の動員力を誇っていた阪神にも変化がある。私は阪神を取材する機会が多く、関連のブログも発信しているため、トラファンの声がよく聞こえてくる。

 昨季まで7年連続1位だった観客動員が今年は5.9パーセント減で、巨人にトップの座を明け渡した。事実上の消化試合となってから、金本知憲引退試合で何とか客席を埋めたが、この「特需」がなければもっと減っていた。

■野球の人気は3番目

 ブログなどへのファンの反応を読ませていただくと、タイガースが嫌いになったわけではない。興味がなくなった、というのだ。実は「興味がなくなった」というこの状態が一番怖いのだ。

 「弱いから球場にいかない」であれば、チームを立て直せば済む話で、やるべきことはわかる。

 しかし、興味がなくなったという現象には対処のしようがない。

 阪神はセ・パ交流戦を含め、ビジターでもお客を連れてくる球団として営業的には12球団のなかの大黒柱的存在だった。その阪神の集客力にかげりが出てきたとなると、事は重大である。

 業界の中に身を置いていると、プロ野球の先行きについて、恐ろしく問題意識が希薄なのに驚かされる。

 「確かにプロ野球の人気が落ちたかもしれない。サッカーに負けているかもしれない。しかし、まだ“二番手”はキープしているわけでしょう……」

 この考えが非常に甘い。

 ロンドン五輪後にバンダイが3歳から12歳の子どもの保護者に対して実施した「好きなスポーツ」のアンケートでは野球はサッカー、水泳に次ぎ3番目だった。

 男子だけをとれば1位サッカー、2位野球となっているが、中身をみると大差なのだ。男児のなかの支持率が50パーセントを超えるサッカーに対し野球は19パーセント程度だった。私はこの数字を見て愕然とした。子どもの世界はそのまま日本の10年、20年後の世界に反映されるのだから。

 私はカンボジアのナショナルコーチとして普及に携わるなど、微力ながら野球の五輪復帰の手伝いをしている。野球人気の回復のためにはワールド・ベースボール・クラシック(WBC)を含め、国際大会を増やし、日の丸をつけて戦う試合を増やすしかないと思っているからだ。

 しかし、日本が音頭をとってそういう大会を盛り上げようというムードはあまり感じられない。それどころか、選手会の反対で一時はWBCの参加だって危ぶまれたほどだ。

 今、改革に取り組まなければ手遅れになるかもしれないというのに、野球界はどうして危機感がないのだろうか。

 今回の衆議院議員選挙で「日本を取り戻す」と連呼されていたように 野球界も「野球人気を取り戻す」覚悟がいる。

 契約更改で「〇億円」が連発されるお祭り騒ぎが、プロ野球の年中行事としてこの先も続いていく保証はない。その危機感を植え付けてみんなの目を覚まさなくてはならない。そして改革に導く強力なリーダー が必要で、あの相馬社長のようなリーダーが今こそ求められる。

(野球評論家)

日本経済新聞 2012/12/20 7:00)


トップバッターの飯田哲也(あの橋下とか小沢一郎のお仲間とはもちろん別人で、こちらは「てつや」)が塁に出て俊足で相手バッテリーに脅威を与え、3〜6番を占める古田、広沢、ハウエル、池山がたたみかけた1992年と93年のヤクルトスワローズは、こと打撃陣に関しては文句なくこの時期が球団史上最強だったが、名前を挙げた5人のうち、もっとも「これぞという働き」が思い出せないのが広沢だ。それどころか、80年代後半、ヤクルトが弱かった頃に読売などの強豪チームを助けたふがいなさの印象が強い。

日経の記事で威張っている92年にしても、古田敦也の活躍の印象は強いけれども、あの年の広沢で私がいの一番に思い出すのは、甲子園球場で行われた首位攻防の阪神戦でサヨナラ負けを決めた失策、それも平凡なファーストゴロのトンネルをやらかして、オールスター戦以降ずっと守ってきた首位を阪神に明け渡した試合だった。もっとも、その後神宮球場で同じ阪神を相手に好投の仲田幸司から両軍通じて唯一の得点となるホームランを放って再び阪神と同率首位に並んだ試合もあったから、サヨナラエラーをいちおう帳消しにはしている。しかし、文字通り攻守の要だった古田と比較して見劣りしたことは否めない。あくまで私見だが、球団の査定が広沢よりも古田の方がはるかに上だったのは当然だと思う。

それに、広沢でなんとしてもいただけなかったのは、1994年のシーズンオフにFA宣言して読売に移籍したことだ。しかも、前年に中日からFAで読売に移籍した落合博満は読売を優勝に導いたが、広沢はその読売を3位に落とした。なお、広沢に加えてハウエルにも去られたヤクルトは、1995年のシーズンでリーグ優勝し、日本シリーズでもオリックスを破っている。

今でも忘れられないのは、1994年の日本シリーズ第6戦、読売が西武を破って日本シリーズ優勝を決めた試合で、読売先発・槙原がフォークボールを投げる時、ゲスト解説を務めた広沢が、槙原がフォームを起こしている時にいちいち「これ、フォークですよ」などと指摘し、それがズバズバ当たったことだ。つまり、当時ヤクルトは槙原の投球フォームのくせを見破っていた。ところが広沢はその企業秘密を全国中継の日テレの放送で得意気にバラしてしまったのだ。

これを痛烈に批判したのがチームメイトになるはずの落合だった。落合は、あんなことをしゃべっちゃダメだ、いつまた敵として対戦するかもわからないのだからと言い、広沢のプロ意識の欠如を批判した。事実、のち阪神に移籍した広沢は槙原と対戦することになった。広沢が阪神に移った頃、槙原は既に衰えていたが、阪神に移った広沢がその槙原を打ち込んだとは聞かない。

いちおう2連覇したチームの4番打者はあったが、ネガティブな印象の方が強い広沢。上記の長いインタビュー記事は、前半でその自慢が鼻につくから、後半で多少まともなことを言っても説得力は全くない。東京の下町生まれでヤクルト入りした人間が、阪神タイガースの人気のおこぼれにあずかる形で今まで生き長らえてきたのが、そのタイガース人気にもついにかげりが見えてきて焦っているだけではないかと嫌味の一つも言いたくなる。

前にも日経に載った広沢のコメントに感心しなかったことがあった。それは、確か今年4月に中日の山本昌がリーグ最年長先発勝利記録を更新した時の記事だったと記憶する。ヤクルトが2連覇した1993年、ヤクルトは山本昌に勝ち星なしの7敗を喫して、中日に追い上げられて優勝争いがもつれる原因になった。その山本昌に歯が立たなかった代表格の広沢が、何やら偉そうなことを言っていたのだった。

この人の言葉は、しばしば後味の悪さを残す。今回も例外ではなかった。