昨日(4/11)の記事で触れた衆院東京15区補選に出馬を表明した酒井菜摘氏の選挙事務所の件だが、昨日の時点ではまだ三連ポスターが貼られていただけだった。その三連ポスターは、酒井候補予定者の両脇を立民都連会長の長妻昭と都知事選に何度か出馬した宇都宮健児の両氏が固めている。これを見て思い出したのが2020年都知事選の対決構図だった。
その前の2016年には共産党が宇都宮氏と決裂して「野党共闘」で民進党や山本太郎らと一緒に鳥越俊太郎を担いだが、あと出しジャンケン的に出てきたのかどうかは忘れたが小池百合子に大敗した。この敗戦について民進党内では長島昭久だの前原誠司だの細野豪志だのといった右派が当時代表だった岡田克也の責任を云々し始めたので、切れた岡田が先手を打って党代表を投げ出し、その結果「小池百合子さんの背中を眩しく見ていた」とか抜かした蓮舫が民進党代表になった。小池を礼賛するとはなんたることか、と怒った私は、蓮舫代表に対してこのブログで一貫して批判的な論調をとった。その翌年に「希望の党」騒動が勃発した。
「希望の党」騒動で小池や前原や細野に排除された人たちが軸になって結成された旧立民は、2020年都知事選では「野党共闘」で2016年には共産党から切られた宇都宮氏を、氏とよりを戻した共産党などと一緒に担いだが、それに反旗を翻したのが山本太郎だった。だからこの選挙は小池、宇都宮、山本の3人の争いになったが小池が圧倒的に強いことは戦前からわかっていて、興味の的は2位争いだった。私は2014年都知事選ではそのさらに前の選挙陣営で問題を起こしたことがある宇都宮氏は支持できないけれども小泉純一郎の応援を受けた細川護煕など論外だとして白票を投じたが、当時の白票主義はその後捨てた。2016年には、鳥越俊太郎など支持できないけれども、小池百合子に対する拒否の態度表明は絶対に必要だと思ったので「鼻をつまんで」鳥越氏に投票したが、2020年都知事選では、小池と山本の二候補に対する断固とした「ノー」の意思表示として、今度は積極的に宇都宮氏に投票した。2位争いでは宇都宮氏が山本に勝った。
その宇都宮氏が酒井氏の三連ポスターに映り込んでいるのを見て、ポスターに酒井氏が候補者に選ばれたプロセスが反映されていることを感じた。
ネットでちらっと見たのは、革新懇云々という団体、これはおそらくこれまで「野党共闘」で宇都宮氏や鳥越俊太郎らを担いできた人から構成されているのだろうが、どうやら彼らは手塚に、あんな須藤元気なんかを担いでくれるなと申し入れしたようだ。共産党が須藤には乗れないと言ったらしいのもそれを反映しているのだろう。この動きに須藤が反発し、出馬を強行したものだろう。私はこの経緯において、おそらく初動の段階で主体的に動いたのは「生まれも育ちも江東区」という須藤であって、それに手塚仁雄が良い顔をしてしまったのだろうと推測している。つまり、2021年の衆院選東京8区の騒動に続く手塚の失策だったと考えているわけだ。須藤は当然ながら2020年都知事選で立民の都連や当時の枝野執行部を裏切って山本太郎を応援した経緯もあり、山本を頼りにする。しかし山本の配下である櫛渕万里は昨年の江東区長選で酒井菜摘を応援した。つまり山本は補選では須藤と酒井のどちらにも乗れない。ただ心情的には山本は強烈に須藤寄りであろうことは想像に難くない。そのあたりを苦慮した手塚が持ち出したのが東京14区と22区における立民と新選組の選挙区調整であろう。山本側からではなく手塚側からの申し入れであろうと私は推測している。
これは外形的には明らかに山本が「野党共闘」に傾斜を見せた形だ。しかし、どうやら手塚には独断で話を進める悪い癖があるようだ。2021年衆院選及びそれ以降の東京4区、8区、15区において、候補者たちにろくな説明もしないまま、人間を駒のように動かして当人たちに強い痛みを与えた。これが手塚という無責任な人間の本質だろうと私は考えている。私がもっとも強く嫌うタイプの人間である。ただ、東京15区における井戸まさえ氏の冷遇に関しては、2021年の党代表選で総支部長の早期再任を公約したらしい泉健太の責任「も」絶対に免れ得ないと考えている。ただ、もっとも強硬に井戸氏の再任を拒んだ人間は手塚だったのではないかとの心証を現在は持っていて、泉は維新に東京15区を譲り渡すつもりでも持っているのかという、これまでの私の陰謀論仮説はどうやら間違っていた可能性が高いとは思っている。漏れ伝わる手塚の動きから類推して手塚主犯説に傾いているのである。
山本は、立民と手を握ったのではないかとの風評を打ち消すためか、野党共闘には乗らないと言明した。それが4月4日頃のことらしく、私はその時点ではXのアカウントを開設していなかったため、この情報をキャッチするのが遅れた。この声明とともに、東京14区での選挙区調整の話がどうやら共産党には伝えられていなかったらしく*1)、こちらに話はしないわ野党共闘に参加しないと明言するわと、いったい何だと腹を立てた結果が、東京14区への候補者擁立内定なのであろう。
以下、政治おじいちゃんお化け氏のX及び氏のリポストより。
れいわ新選組のくしぶち万里が移動した選挙区に日本共産党が候補を擁立。
— ツイッター政治おじいちゃんお化け (@micha_soso) 2024年4月10日
れいわに対する共産党の立場が変わったのかな…。
これ自体は悪いことではない。/
衆院東京14区に原努(はら・つとむ)氏 | JCP TOKYO https://t.co/GjCywYn9d8
これは櫛渕万里にとってはきわめて痛い動きのはずだ。というのは、東京22区は多摩地区なので新選組や立民はそれなりに強いが、下町の東京14区は公明や共産が強くて新選組や立民は弱いからだ。
共産党は新選組のみならず、暴走することがきわめて多いように見える手塚仁雄にも激怒しているのではなかろうか。今回も相当程度に須藤元気を増長させてしまったことは腹立たしい限りだ。選挙区の棲み分けでも共産党を怒らせたということは、手塚の暴走癖は相当にひどいのではないかと疑われる。立民は手塚都連幹事長を一日も早く更迭すべきではないか。
新東京14区について、立憲と候補者調整をした当区にもし共産党が候補を立ててくるのであれば、その背景や何を欲しているかを探らねばならず、それでも平行線なのであれば相手の嫌がるような擁立をこちらもする必要がある、と話す山本太郎代表 (2024-04-02 調布おしゃべり会)https://t.co/3A1pyOJpEf https://t.co/USuYiT6QaX
— 倉辻/こちらOCEP第五電算室(ocep5v) (@ocep5v) 2024年4月11日
これについては、山本には「お前が言うな」というほかない。2020年の都知事選では、あの小沢一郎をも怒らせてしまったほどだ。「相手の嫌がるような擁立」をいつもやってきたのは他ならぬ山本太郎の新選組だった。
まあしかし新選組(山本太郎)にせよ共産党にせよ立民にせよ、組織を牛耳る権力者たちの動向(争い)ばかりが注目されて、「組織と人間」に思いを致す人がきわめて少ないことは、昨日も書いたけれども嘆かわしい限りだ。そういや以前、お前は誰に帰依するのか立場をはっきりさせろとコメント欄に書いてきた馬鹿がいたっけな。思い出すだけで腹が立つ。
今日は紙屋高雪氏の下記ブログ記事へのリンクで締めくくる。
*1:このあたりの拙速さはいかにも手塚らしい。先日の井戸まさえ氏のXからも、手塚が東京8区でも候補者に何も伝えないまま山本との裏工作に突っ走っていたらしいことが読み取れる。
>この国の人々は、あまりにも(身近な=つまり自らが支持する)権力に従順でありすぎるのではないか。言い換えれば、あまりにも権威主義が強すぎるのではないか。
>この状態からいかに脱却するかが、現在のような大きな変革の時代に生きる人々にとっての最大の課題の一つだ。私はそのように信じて疑わない。
もう本当に一言一句同意するところです。しかし同時に、この現実こそがこの国の絶望の深淵そのものではないでしょうか。
この国は、骨の髄まで権威主義に浸かり切っています。しかしそれは、ほとんどの権威主義的行動が無自覚の発露であることを意味しています。無自覚な悪癖を直すことにどれほどの苦労が伴うか、よくご存知のことと思います。そのような苦労を自発的にするように、変革を促すことは可能なのでしょうか? それもこれまで自発的な反抗などしたことがほとんどないような人々に、です。難しいのは、それを強要した時点で既に権威主義的との批判を免れないことです。それはアナーキズムのジレンマにも通じますし、党の体質批判を「反革命」と呼んで激しく糾弾する日本共産党の姿も重なりますが、権威に対抗するためには同じ方向を向いて一つにまとまらなくてはいけないが、それは完全に自発的な意志によるもので強制されてはいけない、という単純かつ当たり前のことを実現するのが洋の東西を問わずいかに難しいことか、いわんや西欧や米国と比較して個人主義の薄弱なこの国においてをや、と思います。
もっと難しいのは、自発的な連帯です。理不尽な権力の横暴に晒されることは、場所にやる濃淡はありますが、確率的な事象であって誰にでも起こりえます。そして本人が晴天の霹靂に怒り抗おうとするのは自然なことで、本人の意識変革次第で(或いはそんなものなくても)十分期待できますが、この国ではそういう虐げられた人を助け、連帯しようとする動きがとてもとても弱い。みんな人ごとだったり、何かあったときの報復が恐ろしいのでしょう。中には抵抗を批判し、嘲笑い、叩き折ろうとする権威主義の権化のような人も大勢いて、ブログ主の主要な批判対象は後者のような「輩」と推察しますが、そうした人、殊に無意識にそうした行動を取る人には自主的な変革など迫るだけ無駄でしょう。必要なのは、そういった個人を迫害する悪意を社会から叩き出すことです。それ自体が権威主義的行動に繋がってしまいうる自己撞着については既に述べましたが、それをさて措いたとても、そうした他人に向けられた悪意に立ち向かう勇気をどれだけの人が持ち合わせているでしょう? 60年・70年安保や全共闘などを引き合いに出さずとも、「反逆者は社会的に抹消される」というナラティブは、既にこの国に広範に敷衍しきっています。迫害を受けた人を助けるには、まずその周囲にいる人たちがこの思い込みを打破し、横に立ち、戦いを支えてやらなくてはいけません。しかし現実には、誰も助けない、或いは助け舟が少なくて、文字通り孤立無援のまま各個撃破されて負けてしまう。「誰も守ってくれない」「頼れるのは自分だけだ」という諦めが、周り回って絶望の社会を自己実現してしまっていることに、みながもっと自覚的でなければなりません。しかしこの思い込みはとても強固で、しかも日ごとに社会的現実がそれを補強し続けているという現状があります。普通の人にその恐怖を乗り越えて連帯せよ、と呼び掛けるのは少し虫が良すぎるでしょう。玉砕覚悟で権威に立ち向かえるような人は少数派です。普通は後に続いてくれる人がいると分かっているからこそ立ち上がれるわけですから。かと言って思い込みを頭ごなしに否定したりするのはあまり良い手段とは言えません。反逆者を体制が潰そうとするのは事実ですし、その危険かあるからこそ連帯しなければならないわけで、そういったごまかしには人はかなり敏感に反応します。結局、一人一人の思い込みを解きほぐし、根気よく説得しなければならないのですが、普段から政治的会話が忌避されることが当たり前になっているこの国で、そうした対話が社会を変えるまでに広がるのに、いったいいつまでかけたら良いのでしょうか。政治が変われば、といった次元ではなく、文字通り一人ひとりの意識変革が必要だからこそ、時間がかかります。世代が丸ごと入れ替わる方が早いのではないでしょうか。
他方、直接に関わらない領域からは、無関心の壁を越えなくてはいけません。インターネットやマスメディアはこの意味で有力なツールですが、既存メディアは完全に既存の権威に染まった対世論向け宣撫組織でしかなく、インターネット世界は現実と接続しない「ネット軍師」と陰謀論者の草刈場と化しています。彼らの権威に転んでしまえば、これまたネットに蔓延る逆張り体制擁護派とのネットバトルや「Twitterデモ」でガス抜きしては何かやった気分になるだけに終わるでしょう。そこから頭一つ抜け出すには現実と接続して、何か意味のある行動を組織するしかないですが、そうなればわっと群がってきた既存の組織にあれよあれよと絡め取られて取り込まれ、バラバラに解体されてから「組織の論理」という名の新たな権威主義で潰される。どこかの権威に潰されそうになっている時に別の権威から手を差し伸べられて、それを手に取らないのは難しいでしょう。ましてやその手の持ち主が良識ある個人主義者の集まりなのか権威的組織なのか見抜くことなど、どだい不可能な話です。まるでヤクザの手口ですが、この国には、個人の反逆を抑制し懐柔し、叩き潰す為の罠が、見渡す限りありとあらゆるところに仕掛けられているのです。そうした「内紛劇」を見せられた市井の人に、無関心に陥らず権威主義の入れ子構造を踏まえて適切な反応を、というのは高望みが過ぎるでしょう。おまけに最近は「暇アノン」に代表されるようなネットの悪意をそのまま社会実装したような集団が顕現してきて、実相のレベルで社会運動を破壊してやろうと手ぐすねひいてるような時代です。「政治に関わる奴らはやっぱりうさんくさい」と言われないようにする為には、こうした罠に全く引っかからないように立ち回りつつ、社会的に影響のあるレベルまで活動の幅を広げていくしかありません。そんなこと果たして可能でしょうか。
唯一希望らしきものがあるとすれば、そうした社会的しがらみに囚われず、失敗経験による恐れを持たない若い人や海外出身者による発信や行動でしょう。しかし折からの少子化に加え、教育利権は清和会に連なる権力権威がみっちり詰まっており、外部からの意見も国民挙げての閉鎖志向、排外志向で、聞く耳どころか、そもそも人を入れない、意見は言わせず使い潰す、と徹底しています。体制の恐れの表れとも見えますが、高い期待を持てるような状況にはなく、「個人抑圧」の手段は増える一方になっています。
僕はこの国はもう一種の「技が極まった」ような、恋愛ADVなどでいうところの「ルートが固定された」状態にあって、抜け出せない、変更はもはや効かないものと考えています。「行く先はロシアかイスラエルか」と言っていた人がいましたが、僕は北朝鮮ではないかと思って……まあそんな行き先の違いはどうでもよくて、国の行く末を変えるのが難しいならば、個人のレベルで脱却するには国を出るのが一番簡単という話になります。僕はそこまでして生き残るほどの未練もないしいいや、ということで残りましたが、言ってしまえば世の中の人みな、その程度のこだわりしかないからこういう国こういう社会になっているわけで、社会を変えようなどとは考えず、「望む」通りに滅びに任せる(そして嫌な人は逃げる)ほうが、お互いのため。そういう状況に、もうこの国は来ていると思います。
僕自身もこんなことを言いながら目の前で苦しむ人に助けの手を差し伸べられず、あの時「見殺し」にしたのではないかという後悔がいくつもあります。人間に完璧はありませんが、そのように強く意識づけていなければ(意識していても)人助けもままならない社会になっている時点で、きっと何かがおかしいのです。まあこの場合、おかしいのは僕の方かもしれませんが。
一度文書が間違えてF5で飛んでしまい、記憶を頼りに書き直していたらこんな時間になってしまいました。長文で申し訳なく思います。